現在放映中のアニメ『平家物語』を見ていて思ったことなのですが、
ジレンマの状態にある人物の心情って凄く人間的な魅力に溢れていると思うんですよね。
ジレンマというのは、簡単に言えば「2つの事柄の板挟みになった状態」のことです。
人がジレンマの状態にあるとき、葛藤が生まれます。
この葛藤という心理、ある意味で最も人間らしさを含んだ感情だと思いませんか?
というのも、人間には理性がありますよね。最初に下した本能的な選択に対して歯止めをかける機能を持ち合わせています。
理性のある人間にとって、ジレンマに起因する葛藤というのは、常に隣り合わせなわけで、人間らしさの象徴とも言えるわけです。
それゆえに、この人間らしさの象徴たる葛藤というと、私たちは強く共感させられます。
『平家物語』の2話はまさにジレンマの物語でした。
父である清盛と後の高倉天皇の摂政である基房とのジレンマに囚われる重盛。
平家としての自分と天皇家憲仁の妻としての自分とのジレンマに囚われる徳子。
主人である清盛と祇王とのジレンマに囚われる仏御前。
資盛を伊勢に追放したのも基房に対する非礼を詫びるためであると同時に、それは結局のところ平家のため、引いては父・清盛のためですよね。
徳子も夫を亡くしてしまった妹の話をして、入内に対する不安を口にしますが、最後には入内の決意をしていました。(3話では憲仁が他の女のとこへ行くのを送り出しているものの、そのあとに微妙な表情を見せています。)
そしてアニメ本編ではほとんど描写されなかった仏御前。
実は彼女、最初から清盛のもとにいたわけではないんですよ。
白拍子として名を上げ始めていたところに、清盛に舞を見てもらおうと彼女自身が清盛のところへ押しかけました。
そこで評価された仏御前は、もともとそのポジションにいた祇王と入れ替わる形で清盛を主人としました。
ところが、祇王を追放するような意図のなかった仏御前は、清盛に祇王を連れ戻すようにいうのですが、結局祇王はその清盛の配慮の無さに嫌気が差し、尼となってしまいます。
その後、仏御前もあとを追って尼となるのですが、この間にあった仏御前の「清盛に評価されたい」という思いと「祇王を追い出す形になってしまった」ことに対する罪悪感とのジレンマがありました。
自分は特に、この最後の仏御前の葛藤に共感しまして。
白拍子の世界って、こういうのを見る限り、きっと実力主義なんですよ(容姿や振る舞いもあるとは思いますが)。
自分が競争に勝ち抜けば、その分敗者が出る。自分が勝者だった場合、敗者に目を向けることってあまりないと思うんですけど、ここでは嫌でも目に見える形で描写されているんですよね。
それがもう苦しくって。
清盛に道具のように使われ、捨てられた女性たちと、その間にあった競争社会における勝敗。最終的に仏御前が尼になってしまうのも頷けます。
そういうわけで、この白拍子のお話は、平家物語の中でも最も好きなエピソードの1つです。
以上、ジレンマの状態にある人間の心情描写の面白さを語ってみました。
アニメ『平家物語』はほんとにこういった場面の心情描写が上手いな~と思います。
ぜひジレンマという観点にも注目して以降のお話をチェックしてみてください。
余談ですが、2話は政略結婚の話も含めて、駒のように扱われる女性というのが1つのテーマだったのかもしれませんね。
徳子もその妹も、夫には他の女性がいるにも関わらず、子供を産んで。しかも妹にいたっては夫はすぐに亡くなってしまい、あの若さで未亡人になってしまうという。
加えて白拍子のお話。
改めて緻密に構築されたストーリーだったなと。