つかまえて、でも突き放して-『日々は過ぎれど飯うまし』7話 /『ボールパークでつかまえて!』7話
エパリダ以来の記事です。
今期2025春アニメは面白いアニメが多くて嬉しいです。
一方で現在、全体的に9話あたりまで来ており、今クールも終わりに差し掛かっており、寂しい気持ちもあります。
私のお気に入りは『宇宙人ムームー』『ボールパークでつかまえて!』『mono』です。
他にも好きな作品、面白い作品はありますが、この3つが特にいい感じです。
さて、今回は少し過激に、あまり関係のない今期の2作品を無理やり繋げていく試みをしてみようと思います。
面白半分で読んでいただけると幸いです。
今回取り上げるのはタイトルにもある通り、『日々は過ぎれど飯うまし』(以下、『ひびめし』)と『ボールパークでつかまえて!』(以下、『ボルパ』)です。
私の周囲にはこの2つを両方見ている方は少ないようでしたが、できるだけ内容を補填しながら書いている(つもり)なので、片方しか見ていないよという方もぜひ読んでいってください。
また、全体的にひびめし批判のような形になっています。ご了承ください。
『ボルパ』は『ひびめし』批判の物語!?
1人を「ハブ」る!?食文化研究部
『ひびめし』は、女子大生5人が食文化研究部という (ダミー)サークルをつくり、一緒に遊んだり出かけたり、ご飯を食べたり食べなかったりする日常を描くお話である。
主人公の河合まこは大学入学当初、1人で授業を受け、1人でごはんを食べる生活を送っていたが、そこで小学生時代の友人であった小川しのんとばったり出会う。小川しのんはいわゆるムードメーカーである。大学でも既に複数の友人関係をつくっており、比嘉つつじ、古舘くれあと共に食文化研究部をつくろうとしていた。
まこは彼女らと共に、その後人見知りでつつじの高校時代の友人である星ななも加わった、食文化研究部の一員として大学生活を送ることとなる。
食文化研究部は、ダミーサークルというだけあり、食文化を研究するわけではなく、登山に行ったり、ドライブに行ったり、合宿に行ったりと、基本的には女の子たちが仲良く和気藹々とする物語なのだが、実は食文化研究部はかなり厳しい場所でもあるのだ。
というのも、『ひびめし』には、1人を「ハブ」る場面が散見される。
最も印象的なのは、7話だ。
タイムラインで見ている限り、この回は大盛り上がりであり、「神回」とも言われていた。
食文化研究部の1人である古舘くれあは、他の部員とは大学時代からの付き合いである。
その一方、まことしのんは小学校時代、つつじとななは高校時代からの付き合いである。
つまり、くれあだけ昔の思い出を他の部員と共有していないのだ。
まさにそのお話が中心になっていたのが7話である。
部室で合宿の話をしている最中に、まこが見た夢の話になり、彼女らの間で昔話に花が咲く。
それを聞くくれあは、1人疎外感を覚えていた。

合宿の寝る前のピロートークでもその話が続く。
そんな様子を気にしていたまこは、みんなでご飯を食べたあと、満点の星空の下、周囲の夜景を一望しながら、「今がいつか思い出になるから気にしなくていい」と慰めたのである。
そんな会話を経て、2人の間の距離が縮まった結果、くれあがまこを名前呼びするようになった。
タイムラインでは特に、このシーンを挙げて「神回」だとするような投稿が多数見られた。


確かにこの2人の距離が一気に近づくイベントで、感動的なシーンではある。
しかし一方で、7話についてくれあが「ハブ」にされていたと解釈することはできないだろうか。まことしのんは小学生時代の思い出を、つつじとななは高校の頃の思い出を共有している。過去の思い出を共有しないくれあはその話には加われない。
つまり、くれあだけが関与できない思い出話をすることで、「ハブ」っているのである。
そして、このようにくれあを「ハブ」ることによって、これから今という新たな思い出を共有していなければならない、という強制力を働かせている。
上に示した一連の話は、食文化研究部の全員が思い出を共有していなければならないという強制力を働かせることで、食文化研究部に対するコミットメントを過剰にさせている。
これに似た展開が、実は5話のドライブシーンにもあるのだ。
つつじとしのんが、なながまだ入部していないときの食文化研究部で、高尾山の登山にいったときの話を、車内でするのである。
それを聞いたななはいう。

一瞬空気が凍る。
一般的にはクスッとなってしまうシーンではあるのだが、ここに強制力みたいなものが感じ取れるのだ。
つまり、なな、特に極度の人見知りである彼女にとっては、食文化研究部というコミュニティが大学における居場所であって、そこにフルコミットしなければならない。
そこでみんなと思い出が共有されていないと、この居場所に残り続けることはできない、という強制力が働くわけである。
ななのこのセリフはそういった強制力を感じてしまったがゆえの産物と考えられる。
これに対して、しのんは「これからこの5人で、たっくさん楽しい思い出つくっていけばいいんだよ」という。
これは新しく思い出をつくって、その思い出によって食文化研究部の部員を結びつける行為である。
7話のくれあのお話も、要はそういうことで、「思い出を共有していない人を『ハブ』にして、新たな思い出によって結びつける」という、いわばマッチポンプ的な話の展開がなされおり、食文化研究部というコミュニティに過剰に束縛させていくのである。
大学で1人だけど飯はうまい、でもいいはずだ
ひびめしの話は思い出を共有しない個人を一度「ハブ」にして、そのあとで集団に包摂していくみたいな展開のされ方をしている。
確かに5人みんなでの思い出はかけがえのないものだが、それはそれとして、当初大学生活を1人で送っていたまこっちが、モコ太郎の動画を見て、それを参考にして1人でご飯をつくり、それを美味しく食べる話もいいじゃないかと思う。

(というか、当初『日々は過ぎれど飯うまし』というタイトルから想像される話はどちらかというとこっちの方向性だった。)
5人みんなで思い出をつくる、という展開によって、こういった1人での経験みたいなのが失われてしまうのは好ましくないように思われる。
余談
7話の話をちょっとだけ振り返ると、みんなでレトロ電車に乗るシーンがある。
5人で乗るにも関わらず、4人のボックス席に座ることになる。つまり、1人余る。
これも1つの「ハブ」である。

『ボルパ』は突き放す
さて、ここまで『ひびめし』の「ハブ」について論じてきた。
これほど意識的・露悪的ではないにせよ、1人を「ハブ」にするということは事実ベースで理解していただけたと思う。
ここからは『ボルパ』の内容に触れ、その問題を引き受けたい。
『ボルパ』は球場のビールの売り子に視点を置き、場内外の様々な客と交流するお話である。
メインとなるのはまだ経験の浅い、金髪ギャルの売り子・ルリ子である。
(おそらくビールの売り子、略してルリ子だ。安易だがわかりやすい)
ルリ子がどのような接客をするのかは、一般的な金髪ギャルを想像していただければ、それほど外れないだろう (私の金髪ギャル像がズレまくっている可能性はあるが)。
ルリ子はたまにドジを踏むが、とにかくノリがよく、人懐っこさがあり、老若男女から好かれるような、そんなキャラクターである。
そしてそんな彼女のキャラクターが、本作品が醸し出す温かさの源泉となっている。
注目したいのは、そんなルリ子がメニューにない酒を注文しまくる酔っ払い迷惑おっさんの接客をするシーンのある7話である。
この話では、ルリ子が働く球場をホームとする、千葉モーターサンズの監督の「99回のムダを頑張れるやつが好き」という言葉に感銘を受けたルリ子が、毎度行われる売り子たちの「ムダな」声出し練習の意義を次々と見いだしていく。

「大変申し訳ございません」「Have a nice day!」
その日の接客では、次々と練習したセリフを使うことになり、「声出し意味あるじゃん!」と練習の意義を見いだしていくが、唯一「have a nice day!」という掛け声だけは使えずにいた。
流石に「have a nice day!」を使う場面は限られるから、これは無理かと思っていたところ。
そんなときに出会う1組の客が、ビール以外の酒を注文しまくる迷惑酔っ払いおっさんである。
そのときの会話で、おっさんに「ハブ酒ないの?」と言われるシーンがある。

ルリ子はそのおっさんの対応に困りながらも、最後に「ハブはないっすね〜 (=have a nice day)」という。
その直後、自分の発言にハッとして気づき、「『have a nice day!』使う場面あった!やっぱ声出し練習意味あるじゃん!」と気づく話だ。
これはこれで面白い話なのだが、それはそれとしておわかりいただけただろうか。
ここで先程までの『ひびめし』の話を思い出してもらいたい。
『ひびめし』は1人を「ハブ」にすることで話を展開していたのだった。
奇しくも『ひびめし』と同じ7話において、『ボルパ』は「『ハブ』(るの) は (よく) ないっすね〜」と言い放つのだ。
これはもはや、『ひびめし』批判と言っても過言ではない (過言)。

というのはちょっとした冗談として。
しかしこの無理やりな話の繋げ方によって、『ボルパ』は『ひびめし』のカウンター的な話を展開していることに気づく。
ルリ子のこのセリフは「Have a nice day~!」と迷惑なおっさんでさえも球場から「ハブ」ることなく、それでいて「ハブ (酒)はないっすね~」と軽くおっさんを突き放す両面性を帯びている。
この球場内にいるチームのファンはみんな味方である、という強制力の中で、その束縛から解放する逆方向への突き放しをするのが、ルリ子のこのセリフである。
別に売り子だからといって、ハブ酒まで用意してやる義理はないが、まぁビールは売れるから売るけどさ、という感じだ。

迷惑おっさんにも満面の笑みで「あざっした~」と言って元気に去るルリ子

つまり、「ハブ」にして「全員が思い出を共有しなければならない」ような強制力を働かせることで、コミュニティへの束縛を強化していく『ひびめし』に対して、
『ボルパ』は球場内の客を仲間として同調させていくのではなく、同じチームを応援する味方という最低限の繋がりだけを保ち、どんな客でも受け入れつつも突き放していく、というつかず離れずの緩いコミュニティをつくりあげているのだ。
同じ釜の飯を食わなくてもいい
さて、ここまでだと「ハブ」とかいううっすいラインでこの2作品を繋げたのか?となってしまうので、もう少し話を繋げたい。
同じ釜の飯を食う『ひびめし』
ひびめしの話は「同じ釜の飯を食う」を地で行く物語、と言っても文句はないだろう。
実際、部室の前や旅先で思い出を1つ1つ形成するが、それにはいつも、みんなで同じ食事をする行為が伴っており、互いの距離を縮めることでより強固なコミュニティになっていく。

多くの『ひびめしファン』は、やはりこの一連のシーンを魅力的に感じているのだろうと思う。
先ほど、まこっちが1人で食事をするシーンを挙げ、充実した1人飯生活を送っていることを述べた。
しかし、1話以降の食事するシーンは基本的に部員が全員集まって行うものとなり、まさに「同じ釜の飯を食う」アニメといっていいだろう。



余談
飯に対するこだわりがすごい。トマトを包丁で切った切り口を見て、「変態だ」と思った。

同じ釜の飯を食わなくてもいい『ボルパ』
一方で、ボルパでも「同じ釜の飯を食う」に関連した話がある。
そして奇しくも、また同じく7話である。
ドラフトで同じ年に入団した2人の選手のお話だ。方やドラフト1位でフィジカルエリートで入団早々にスター選手、方やドラフト6位で身長も小さく、ケガで出場できない選手の代わりでやっと一軍出場できた選手だ。
6位の一宮は、1位の獅子尾に対して劣等感や嫉妬心を抱いており、あまり日常的な場面で出くわしたくはないと思っている節がある。

練習前のあるとき、食堂に向かう一宮が、食堂から帰る獅子尾とすれ違いざまに獅子尾に言われる。
「あんかけ唐揚げ美味かったから食ってみ。あれ、航絶対好きだぞ」。

獅子尾はこういうちょっとした声かけみたいなことを素でやってしまうイケてるやつである(関係ないかも知れないが、女性ファンも多い)。
一宮としてはいろんな悪感情が湧いてきてしまうために、獅子尾との接触はできるだけ避けているのだが、そんなやつにあれ絶対好きだから食ってみろよ、などと言われて「調子が狂う」わけである。
一宮はその後、獅子尾を巡る悶々とした思考の中、食堂に行くのだが、食堂のおばちゃんにそんな気持ちを察されてか、
「関係者用の食堂のお米と選手食堂のお米はどちらも同じセントラルキッチンで炊いている」
「球場で働くみんなが、あなたと同じ釜の飯を食べてる。だからみんな、あなたの味方、みんなね」
と言われるのだ。
そして、あんかけ唐揚げを食い、「美味い」と涙をこぼす。




「美味い...です...」
一宮はこの出来事を機に、獅子尾への向き合い方を変えようと試みる。
(獅子尾を敵視していた一宮だが、獅子尾としては、自分のことを仲間だと思っていて、その純粋な気持ちであんかけ唐揚げが好きそうだと言ってくれた。一方的に嫌悪していた獅子尾だが、彼も「同じ釜の飯を食う」味方であるのだから、正面から向き合う必要がある、という気持ちの変化だろう。)
ここまでを見ると、『ひびめし』同様、「同じ釜の飯を食う」物語のように見えるのだが、重要なのはこのあとの展開である。
そして、当初獅子尾と接触することをなるべく避けていた一宮は、食堂での話を獅子尾に話題に振る。
「なぁ知ってるか?獅子尾。俺たちが食ってる食堂の米ってさ、実は....」
さぞかし感動的なシーンになるのだろうと思いきや、
獅子尾は
「俺パン派だから食堂の米食べたことないんだよな~」
と突き放してしまうのだ!
それを聞いた一宮はズッコケ。やはりこいつ嫌いだ、となってしまうっていうオチだ。

いや~なんて清々しいんだ。
みんなが「同じ釜の飯を食」ってるんだから、みんな味方でみんな仲良く、なんて言われても、実際のところ「とはいってもやっぱ嫌いなやつは嫌いだし」となるわけである。無理なものは無理なのだ。
この話はとにかくそこのバランスが絶妙である。
ここでの嫌いだ、は「憎めないやつだ」みたいな意味合いなわけで、今すぐにチームから追い出したい、出ていきたいというわけではないだろう。
この絶妙なつかず離れずみたいな距離感が良い。
「同じ釜の飯を食う」ことによって、結束を強めていくというのは、かけがえのない仲間をつくる上ではとても重要なことではあるのだが、反面それはメンバーを束縛してしまうものにもなる。
『ひびめし』のいいところはそのかけがえのない一瞬のキラキラした青春の思い出をつくるところではあるのだが、みんなで思い出を共有していく方向性というのはときに脅迫的である (5話の星ななのセリフを聞けばわかるだろう)。
思い出を共有していなければ「ハブ」になるので、そこに身を投じる必要が生まれ、コミュニティ外での活動を制限されかねない。
『ボルパ』はそこのところを上手いこと突き放している。
球場にいる同じチームを応援する人たちは確かにみんな味方ではあるのだが、ハブ酒まで用意してやる義理はないし、別に同じ釜の飯を食う必要も無い。
球場は日々の生活では全く交わらない、思い出を共有しない人たちが集まる。
それでも選手が活躍し、チームが試合に勝てば、ビールを片手にみんなで盛り上がれる。
そんなつかず離れずなコミュニティが、球場ひいてはサードプレイスとしてのあり方なのではないだろうか。
終わりに、および自我パート
「ハブ」ると「ハブ」酒という冗談みたいな話から無理やり話を進めてきました。
『ひびめし』に至っては「ハブ」という単語はアニメの中で (おそらく)使われてもいないので、全くひどい話です。
ただ、そこから『ひびめし』と『ボルパ』を比較してみると、前者はどんどんコミュニティに束縛されていくような強制力を持っている一方、後者はその束縛は最低限で、むしろ突き放す方向の力を持っている、とわかる。
こういう緩いサードプレイス的なのがあってほしいな~というのもあり、私は『ボルパ』の方が好きです。
『ひびめし』もいいんですけど、こういうことを考えていたがために、7話でくれあが「まこ」呼びしているシーンを挙げて「神回」「神回」と言われるのに対してちょっとつっかえていたんですね。
私がむしろ『ひびめし』7話で好きなのは、しのんが「つつじさん、あなたの意気込みを聞きたいですわ!」と合宿に対する意気込みを聞いた際に、「意気込み~」と答えるところです。
その後しのんが「それでは点呼取ります! イ~チ!」と言ったのに対して、くれあが「あ、みんないま~す」と答えるところもめちゃくちゃ好きです。


意気込みを聞くとか、点呼とか、そういった堅苦しい儀式を軽々しくはねのけていく爽快感があって好きです。
今回はこんなところです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
なお、画像は
『日々は過ぎれど飯うまし』ひびめし製作委員会
『ボールパークでつかまえて!』須賀達郎・講談社/「ボールパークでつかまえて!」製作委員会
より引用しました。
冒険者ランクを撤廃しましょう-『Aランクパーティを離脱した俺は、元教え子たちと迷宮深部を目指す。』
今回は『Aランクパーティを離脱した俺は、元教え子たちと迷宮深部を目指す。』(以下、エパリダ) 9話まで見たときの感想というか、批判みたいなものを書きました。
9話の展開がどうにも納得いかなかったので、いろいろ考えて書きました。あまり過去の話を振り返っていないので、言及が雑なときがあります。あしからず。
今回の話は大きく2軸で書いていて、1つめは「ジェミーのクローバー加入ダメでしょ問題」について、2つめは「ダメなのはサイモンじゃなくてむしろギルドでしょ問題」についてで、記事のタイトルはこの2つめの問題についてのものです。
ジェミーのクローバー加入ダメでしょ問題
これでジェミーがクローバー加入するの、なんかおかしくないですか?
9話で元サンダーパイクのジェミーがクローバーに加入することに決まりました。
あのパーティサンダーパイクの中で唯一ユークを虐げてきた過去を反省したジェミーは、無色の闇攻略中、サイモンの策略により動けなくなってしまったクローバー一行を救ったことで、ユークや視聴者に対する株を回復させた(ということになった)。

その功績を称えるべく、9話ではジェミーをクローバーの仲間として受け入れたのである。めでたしめでたし。これにて一件落着。いや、”一見”落着したように見えるのだが。
そんな簡単にことが進んでいいのだろうか。私のお気持ちとしては「こんなことで許されてたまるか!!!」といったところなのですが、少し冷静になって、ジェミーのクローバー加入問題について権力構造の観点からの批判を考えてみたい。
ジェミーはユークに抑圧されている
まず、ジェミーとユークの権力構造に着目してみる。
ジェミーはサンダーパイク時代、ユークを虐げてきた。
しかしユーク離脱後、徐々にユークに対する自責の念に駆られる。
(これも結局自分が雑用押しつけられてしんどいやめたいとかそういう感じですよね)
加えて、ジェミーは弟の病気(恐らく慢性的なもの)を改善するための薬をユークに提供してもらっていたことが、のちのちになってわかる。
弟をたすけてもらってたのにも関わらず、ユークをめちゃくちゃいじめてて、そのせいでユークはパーティーやめちゃった。(←当たり前すぎませんか?というのはさておき)
つまり、ジェミーはユークに対して、申し訳ない気持ちでいっぱいで、まるで頭が上がらない状態なのである。こういう現状がある。
ジェミーはクローバー加入に関して受動的である
8話冒頭を見てみよう。ジェミーが録画を回し、これまでのユークに対する謝罪をする場面である。
ここで、ジェミーは「私だってクローバーのメンバーに誘ってくれたかもしれない」「それは流石に都合よすぎか」というセリフを残す。これがジェミーのクローバー加入に対する分析である。

つまり、クローバーに加入したいのだが、「クローバーに加入したい!」と積極的に、かつ直接的にお願いするのは図々しいだろうという客観的な評価を下している。
これはまさに、先の権力構造を反映している。
本来なら、ジェミーはクローバーに入りたいのだから、直接お願いすればいいのである。しかしそうはならなかった。ユークに抑圧されていて、そんな図々しい行いはできないと自制したために、「録画で間接的な」「クローバーに誘ってくれたら、という受動的な」セリフになった。
ネネとの比較
この態度はネネと比較してみるとより際立って見える。ネネは受付嬢ママルの元で修行を積んだ元シーフの忍者である。
彼女はクローバーのメンバーと初対面した際、「絶対にお役に立つので雇って欲しいっす!」と言った。なんとこの上ない積極性と主体性に満ちたセリフだろう。「絶対」、ですよ?

先に示したジェミーの態度とは真逆で、クローバーのメンバーに抑圧されない主体的な態度である。
ジェミーはクローバーの競争社会に包摂される
そして、問題の9話を見てみよう。9話ではネネとジェミーのクローバー加入の発表が行われる。
何が問題かというと、このユークが頂点に位置するクローバーに加入することで、ジェミーは主体性を失ったまま、クローバー内の縦社会に巻き込まれてしまうことだ。
クローバーを支配する権力構造
ここでクローバー(四葉)の現状を整理する。クローバーは元先生のユークと、元教え子の3人マリナ、シルク、レインで構成されている。まず、ここに1つの縦社会がある。
結成当初のクローバーでは、ユークが過去に指導したことを3人が確認するような形で話しかけながらダンジョン攻略をする様子もある。
元先生ではありながら、現状でも先生のようなポジションに立っており、3人は先生-生徒という上下関係に、その主体性を抑圧されている。
また、より重要な縦社会は正ヒロイン競争によって生み出されている。
ハーレム状態のクローバーでは、度々3人がユークに恋愛感情のようなものを(自覚的であれ、無自覚であれ)見せる場面が見られる。
彼女ら3人のヒロインは、ユークのヒロインという、唯一の立場(それ以外はいわゆる負けヒロイン)を争って蹴落とし合う競争に巻き込まれている。
その結果、彼女らは彼女らの主体性を疎外され、ヒロインポジションを得るためだけに奔走する奴隷となっている。



もう1つの縦社会として能力社会がある。彼女らは能力的にもユークに対して劣っている。当初はダンジョンに突如登場したネームド(でしたっけ?川のあたりで戦ってたモンスター)を、ユークが倒し切ることができず、それを最終的に、マリナが仕留めるなど、上手く補完し合っていた。
ところが、7話において、ユークは謎の魔法「ディスペル・マジック」を突如として習得する。この魔法は何でもありで、たとえばレインにかけられた首輪の解除やジェミーの受けた、ポーションでは回復できない傷を治癒する。


加えて、8話においてはサイモンと対峙し、ユークの魔法によって、最終的には実質独力でサイモンを無力化する。


基本的には援護が仕事である赤魔道士のユークが攻撃面においても、回復面においても、彼女らの力を必要とせず、むしろ、上位互換として働いている。
つまり、彼女らはユークの力に依存しており、当初の相性補完していたころの、相互の権力関係は、今やユークに抑圧される3人という構造になっている。
まとめると、クローバー(四葉)は元先生と教え子という関係、正ヒロイン競争、能力の3つの縦社会において、マリナ、シルク、レインの3人はユークに抑圧され、主体性を欠如した状態にある。
ジェミーはクローバーの正ヒロイン競争への参加を強制される
これを踏まえて、ジェミーのクローバー加入の話に戻る。
ジェミーとしては、「クローバーに入れたらうれしいけど、都合がよすぎるので入るべきではない」という考えだった。
ところが、サプライズのクローバーへの加入発表で加入「させられてしまった」のである。ジェミーは主体性を失ったままクローバーの縦社会への参加を余儀なくされたのだ。

しかも、ジェミーはクローバーに蔓延る正ヒロイン競争に巻き込まれてしまう。
マリナ、シルク、レインの3人同様、主体性を疎外されてヒロイン競争をする奴隷となってしまうだろう。
ネネとの比較2
一方でやはり重要なのは、ネネは主体性を保っていることである。
ダンジョン攻略で正当に成果を挙げ、正当な評価として、クローバー加入を認められた。彼女はクローバーへの仮加入期間において、主体的に自己実現したのである。
本来はこういった自己実現な場としてのパーティ加入というのが好ましい。
そのことが影響してか、ユークに対して特別な感情を見せる様子は認められず、クローバーのメンバー全員を対等に見ている(圧倒的主観)。
キャメラット君による動画配信の功罪
このクローバーにおける主体性の抑圧は、このアニメ特有の要素によって、さらに強化される。それは「動画配信」である。
この世界における動画配信は、主にダンジョン攻略時に行われ、それを他の冒険者が見ることで、ダンジョン攻略のヒントにしたり、またはエンタメとして消費されたりすることもあるようだ。
動画配信の何が問題かというと、相互監視社会の形成である。たとえば、ダンジョン攻略時に何か問題があれば、それは即座に配信を通じて多くの冒険者やギルドに共有される。

これによってダンジョン攻略中は、冒険者としての行動を強制される。
正ヒロイン競争とは別の軸の、それでいてむしろ原義的でより忠実な奴隷労働を強いられるのである。

これにより、ヒロイン競争を強いられていた彼女たちは、配信中は、ヒロイン競争に加えて、ダンジョン攻略のための駒としての労働を強制される。
まとめると、そもそもクローバーにはヒロインたちの主体性を抑圧するような権力構造が存在しており、サンダーパイク時代からユークに抑圧され、主体性を失っていたジェミーが、半強制的にクローバーに加入させられることで、正ヒロイン競争やダンジョン攻略の奴隷となってしまう危険性があり、このことがジェミーのクローバー加入の潜在的な問題となっている。
ダメなのはサイモンじゃなくてむしろギルドでしょ問題
いじめの構造の再生産になっていないか?
さて、ここで話は少し変わる。
ジェミーのクローバー加入は、「いじめ」の構造の再生産にも通じている。
当初サンダーパイクには、明らかないじめの構造があった。
サンダーパイクで唯一Bランクであったユークは、Aランクである他のメンバーのいじめの対象になっていた。
ところが、ユークの離脱後は、ジェミーにその対象が移行する。ダンジョン攻略中に「配信を開始しろ」「回復魔法を使えればなぁ」などとジェミーに雑用を押しつけるなど。
なるほど、これは要は、「敵と味方を区別する行為」である。明確な敵を作り出すことで、味方を作り出すわけです。
ところが、この構造は展開が進むことに逆転してくる。
5話において、ダンジョン攻略に失敗したサンダーパイク。
そこでママルは嫌みったらしく「Cランクのクエストを受注されてはどうか」と提案する。Aランクパーティなのに、である。

当然、サイモンたちはいい気はしないので、ママルに対してキレ散らかすのだが、それとともに背景に映し出されるのはその他の冒険者たちの白い目である。


つまり、ギルド全体がサンダーパイクをいじめるという構造に変化しているのである。サンダーパイクは徐々に孤立していく。
その結果、追い詰められたサイモンは、違法なアーティファクトを使って復讐を企てる。これはいわゆる「無敵の人」と同質である。


サイモンは無敵の人である
経済的に困窮し、仕事でも人間関係が上手くいかず、極限まで追い詰められた結果、「もう何も失うものがない状態」になった人が、過激な行動により現状がよくなると盲信し、非行に走ってしまうというものである。
度々「全部おまえ(ユーク)のせいだ」といった趣旨の発言をしていたサイモンは最終的に違法なアーティファクトで不死の生命体となり、ユークを攻撃する。

確かにきっかけはユークのサンダーパイク脱退だったのかもしれないが、その時点ではここまでサイモンが追い詰められることはなかった。
その後の度重なるクエスト失敗、一方のユークは新しい環境で順調に成功、ギルドからの孤立。そういったことが重なった結果である。
それらすべてを「ユークのせいだ」とするのは正常な判断力に欠いている。これも明らかに無敵の人の特徴の1つである。
サイモンではなくギルドの問題
本来は、このような人を生み出してしまった、ギルドが管理責任に問われるべきだろう。
ママルとかいう個人的な感情で冒険者を挑発するような受付嬢を指導しないのも問題だし、パワハラ気質のサイモンたちを教育しないのも問題である。
それにも関わらず、ギルドは放置。最終的にクローバーがサイモンに対して取ったのは暴力的な解決である。不死身のサイモンに対し、半永久的に苦痛を与え続ける魔法を付与し、解決とした。かつ、クローバーを救ってくれたジェミーはクローバーに加入させる。これが本当に最悪です。
再生産のメカニズム
サンダーパイクの他のメンバーであるバリーとカミラは恐らく無色の闇で死んだものと思われるが、仮に一命を取り留めていたとする。

地上に戻ってきた彼彼女らはどう考えるだろう。サンダーパイクの魔法使いであるジェミーを引き抜かれ、騎士で主力であるサイモンはもう使いものにならない状態にされてしまった。そんなサンダーパイクを見てどう思うだろうか。彼彼女らはこれからどうやって生きていくのだろうか。仲間がおらず、ダンジョンにも潜れない。生活を続けられない。そうなったときに到達するのは、サイモンと同じ末路である。ユークやクローバーに復讐を企てるだろう。
つまり、ユークたちが行った、味方=善=ジェミー、敵=悪=サイモンと二元論的に切り分けるような行為はこのような憎しみの連鎖を引き起こすだけなのである。
ランク制度が孕む潜在的な問題
先ほど、こういったいじめの構造の再生産はギルドの管理責任に問題があると述べた。ここではギルドが抱える、もう1つの問題について取り上げたいと思う。
それは冒険者信用度(スコア)である。公式サイト(https://arank-party-ridatsu-official.com/keyword/)によれば「パーティのランクやクエストの達成度によって判断される冒険者としてのレベル。スコアが高いほど評価され、別パーティへの転職もしやすい。」らしい。
サイモンは度々「どけ!俺はAランク冒険者だぞ!」的なことを言っている。
多くの人はマウントうぜーとかキモいとか思うのかもしれないが、大元をたどれば、それはギルドから与えられた称号である。
しかし、ユークのサンダーパイク脱退後は、ダンジョン攻略に度々失敗する。その結果、ギルドからの対外的な評価と自身の成果との乖離に悩むことになる。
ギルドはサイモンがAランク相当のクエストを攻略することができる能力があると評価して彼にAランクを与えたのである。
そう考えると、度重なるクエスト失敗はサイモンの能力不足ではなく、ギルドが誤って過大評価してしまったがゆえの問題であることに気づくだろう。ギルドがサイモン単体の冒険者としての能力を適正に評価できていれば、本来攻略できないはずのAランクのクエストに背伸びして挑むこともなかった。見合わない称号を、ギルドが与えてしまったがゆえにサイモンも大きな態度を取るようになってしまい、あの結末を生んだのだ。
ランク制度の撤廃案
だからいっそのこと、「ランク制度とかをなくしてしまおうぜ」というのが私の主張である。
じゃあどうやってクエストを受注するんだと。これは私のとりあえずの一案だが、例えば、ギルドがクエスト受注の際に、パーティの構成や各メンバーの能力といったデータから、適正の高いクエストを提案するのはどうだろうか。
そうすれば、冒険者が下手に背伸びしたクエストを受ける必要もなく、冒険者たちはより安定した生活を送ることができるはずだ。
ギルドが冒険者1人1人と向き合い、各人に合ったクエストを提案することが第2のサイモンを生み出すことを防ぐことに繋がるだろう。
終わりに
ジェミーがクローバー加入したことが納得できず、勢いで書いてしまいました。書いてるうちに、「サイモンはカス。クローバー最高」みたいな二元的な図式に嫌悪感が湧いたので、そこから離れて見てみようと考えたところ、2つめの話に繋がりました。
当初はエパリダの記事を書くなんて、微塵も想像していませんでしたが、これを書いているうちになろう系、特に追放系一般に対する考え方がある程度固まった気がして、それはそれでよい機会だったなと、今となっては思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
なお、使用した画像は
右薙光介・すーぱーぞんび・講談社/クローバープロジェクト
アニメ『Aランクパーティを離脱した俺は、元教え子たちと迷宮深部を目指す。』
から引用しました。
健全なシステムを維持するために-『ラブライブ!スーパースター!!』3期の分析
2024秋『ラブライブ!スーパースター!!』3期はラブライブ!シリーズ初の3期である。
1期の最高学年が1年生というところから始まり、3期で3年生になったところまでを描くものであるという意味でも画期的なものであった。
そして今期がその、主人公澁谷かのんの3年生編である。となると、やはり気になるのはどのようにして下の学年に、部を継承するかという問題である。
旧来のラブライブ!シリーズでは3年生が卒業するタイミングで終わりになるものであった。そういう意味でも、ラブライブ!スーパースター!!は新たな挑戦であったといえよう。
本記事では、どのように部活を維持させるかという点について、権力構造や主体化というキーワードをもとに、1話から9話までの分析を試みたものである。
8話でなぜLiella!とトマカノーテが1つになれたかということについても論じているので、読んでいただけると嬉しい限りです。
なお、全文で13000字ほどあるので、長くて読み始めるのがつらいよ、という人は「おわりに」を読んでいただけるとちょっと読むハードルが下がると思います。
また、要旨は「健全なシステムを維持するために」でまとめているので、そこを読めばだいたいわかるかもしれません。
はじめに
『ラブライブ!スーパースター!!』3期は権力構造の解体と、それに伴う主体化のプロセスによって駆動される物語である、という論理をもとに、
「Liella!とトマカノーテはなぜ1つになれたのか」
「Liella!を健全で持続可能なシステムにするためにどうすればよいか」
という問いに対する、スパスタ的回答を抽出していく。
権力構造の解体と主体化のプロセス
スパスタ3期における最大の目的は「1つになること」である。
Liella!と対立するマルガレーテに加え、1年生として新たに結ヶ丘女学院に入学した鬼塚夏美の妹・冬毬といかに手を取り合うか、というのが物語全体の趣旨である。
ところが、それに当たって2つの問題が浮上する。それは、
- かのん集権体制によるLiella!の維持可能性の喪失
- 2年生-1年生間の権力構造の再生産
である。
1. については以降で随時触れていくことになるが、本記事ではかのんが圧倒的な力(権力)を持つ存在、「神」や「母親」として機能している部分があることを示していくことを先に言っておこう。
現Liella!はかのんに権力が集中しすぎた結果、Liella!のメンバーは主体性を失ってしまっている。かのんが卒業したあと、主体性を失った彼女らの活動は形骸化したものになり、Liella!は腐敗に向かうことになる。それを避けるためにどうすべきなのか。
2. については1. に付随する問題でもある。
3年生卒業後のLiella!はどのようになっているのだろうか。おそらく「第二の澁谷かのん」が誕生するだろう。そのときに生まれるのは、中央集権的な権力構造が再生産されたLiella!である。それは、権力に従属するメンバーの主体性が失われたLiella!である。それを避けるためにどうすればよいか。
この2つの問題を解消するために、澁谷かのんはどうしたのか。以降で述べる。
澁谷かのんは天上の存在であり、権威である。
主体性を失った2年生組
スパスタ3期は、なんとも衝撃的なスタートを切る。
Liella!のリーダーであった澁谷かのんがLiella!を抜けて、オーストリアからの留学生・マルガレーテ、鬼塚夏美の妹・鬼塚冬毬の2人とともにユニット・トマカノーテを結成する。
特にマルガレーテはLiella!に勝つことを目標にしており、Liella!と敵対していた。こちら側にかのんが付くということは、かのんもLiella!と敵対することになる。
しかし、このことによってLiella!を潰してラブライブ出場権を奪い取るのかというと、そうではなかったのだが。
いずれにしても、かのんは来年以降の結ヶ丘スクールアイドル部をどう存続させるか、ということについて考えている。
かのんたち3年生が卒業すれば、現2年生のきな子たちが最終学年となるが、果たして彼女らは結ヶ丘スクールアイドル部を存続させられるのか。どのように存続させるのか。
現2年生の鬼塚夏美、桜小路きな子、若菜四季、米女メイはきな子以外作中でセンターを経験している。
その輝かしい経験歴の一方で、2年生たちは自分たちが最終学年になる、結ヶ丘を代表するスクールアイドル部のトップになる、ということについて自信のない様子が散見される。
実際、4話ではメイ・四季・きな子は「実際、自分たちが先輩たちより上だなんて思えないし」「私たちの力で優勝なんて」「夢のまた夢」と口々に語っている。

これは、先ほどから述べている、かのんに帯びる権威に起因している。
かのんは高校2年生のときに、リーダーとしてLiella!をラブライブ優勝に導く。さらに、2期の最後で、ウィーンに留学することが決定する。これは、かのんがスクールアイドルとしての実力を買われてのことである。
このことからもわかるように、かのんのカリスマ性は国境を越えるほどに、他のメンバーと比べても圧倒的であり、かのんはいわばスクールアイドルの権威なのである。
そんなスクールアイドルの権威が一学年上の先輩ともなれば、後輩である2年生組がかのんに従属するのは必然である。
かのんは基本的に、2年生たちにとっては天上の存在、いわば文字通りの「神」である。なお、最大級の賛辞としての神とは、完全に区別されるものであることに注意されたし。
実際、神であるかのんと2年生たちの交流は意図的に避けられている場面が散見される。










かのん=アルティメットまどか説
8話のこのシーンから着想を得て、「かのん=アルティメットまどか説」を提唱している。なぜかこの絶妙なタイミングで、他の3年生とは別に、たった1人で茨城の鬼塚家に来ていて、外から眺めてそのまま電車に乗って帰って行くのだが、外から見守っている感じと、東京から物理的に離れた場所にふらっと寄っていく様子が、『魔法少女まどか☆マギカ』12話における、円環の理となったまどかの全ての魔女を、生まれる前に消し去るシーンを彷彿とさせるためである。
そういうわけで、このシーンはかのん=神(概念的なもの)という解釈を補強するものにもなっている。
長々と述べてきたが、とにかく、Liella!の現2年生たちにとっては、澁谷かのんの存在は強大な権威となっているのである。
澁谷かのんという権威の相対化
澁谷かのんが強大な権威を帯びたまま卒業すれば、以降のスクールアイドル部は権威に従属するだけの主体性を欠いた形式的なものとなり、形骸化するだろう。< 問題1
ex) かのん先輩ならこう考えるだろうから、こうする。
かのんが避けなければならないのは、このことであり、かのんには自身が帯びる権威を解体する必要があった。
そのために、かのんが最初に行ったのが、Liella!から脱退し、Liella!を敵視するマルガレーテと共に活動することであった。
このことによってLiella!からスクールアイドルの権威が不在となり、相対化される。
澁谷かのんによって支配されていた2年生たちは、かのんの脱退によって、支配されていたという事実を客観視できるようになる。
先に挙げた4話のシーンで、2年生が来年のラブライブを憂うことができたのは、彼女らが置かれている立場を客観視した結果である。
センター>その他という権力構造の解体
しかし当然、これだけでは解決されない。むしろ、かのんに従属していた2年生組はそれぞれ一時的な不安を抱える。
実際3話にて、千砂都が新しいLiella!を目指すと言った際に、きな子は「でも、かのん先輩はいないんすよ?」と不安を口に漏らす。夏美の表情にも不安が滲み出る。

そこで次に、「センター」というポジションが帯びる権威を解体する必要があった。
これまで澁谷かのんを最高権力たらしめる要因の1つには、センターというポジションの存在があった。これまで、Liella!では多くのメンバーがセンターを務めてきたが、OP曲でのフォーメーションに代表されるように、なんだかんだ言って絶対的な不動のセンターは澁谷かのんなのである。
そのため、かのんがLiella!を脱退し、権威を相対化しても、かのん無き今、空白となった「センター」というポジションが実体のない権威となっていた。このとき、センター>その他のポジションという権力構造が存在している。
3話「白色のセンター」において、千砂都は2年生から、四季をセンターに抜擢する。
他メンバーはそれに賛同するが、一方の四季は「センターになる人には人を惹きつける力がある。すみれ先輩やれん先輩、夏美ちゃん。みんなセンターで歌っていたときはそうだった」「私は違う」という。
これはセンターの持つ権威性を示しており、つまりは「ふさわしい人(=かのん、すみれ、れん、夏美など)がセンターになるべきだ」という考えなのである。
このまま四季がセンターに立てば、
センター=ふさわしい人>その他のポジション=四季
という権力構造になるはずだったのが、
センター=四季>その他のポジション=ふさわしい人
という歪な権力構造を取ってしまうことになる。
形式的な権力を与えられた四季は、実質的にはセンターという権威に従属したままセンターを務めることになり、その他のメンバーも同様に、センター=四季という権力に従属することになる。
その結果、Liella!メンバー全員主体性を失ったフォーメーションができあがり、形骸化する。

これに対して、千砂都「いろんなセンターがいてもいい。目立たなくても」と説き、四季はセンターに立つことになる。
ここには権力構造の逆転があった。一連の四季センター抜擢行為によって、センターというポジションが頂点にある権力構造が解体された。
従来の「センターとその権力に従属する周りの人」という構造が解体され、「周りの人たちの主体的な支えによってセンターというポジションが存在する」へと、シフトしたのである。
嵐千砂都は四季のことを「ひとことでいうと白」と評しており、「それ自体はまるで透明みたいに目立たないけど、いろんな綺麗な色の中にあっても一番輝いて見える色」という意味らしい。
後半の「いろんな色の中にあっても一番輝いて見える」という論理は、筆者自身あまりピンと来ていないのだが、光の三原色を考えるのが妥当であろう。
いろんな色が混ざった結果、白色光として見えるし、全ての光が加算されているので、最も光の強度が高くなる。それはまさにいろんな人の支えによってようやく四季がセンターたりえるということを言っている。
センターは神・澁谷かのんを始めとした、人を惹きつけられる人だけが立つだけの場所ではなくなった。これでようやくLiella!メンバーの主体性が取り戻されたのである。
ちなみに、嵐千砂都の上記の発言は、神である澁谷かのんからのお告げであった。いわば嵐千砂都は預言者である。かのんはマルガレーテに「いろんな人がいるから素敵なの。いろんな色があるから綺麗なのよ」と説いた。それの受け売りである。そしてそれは嵐千砂都から、米女メイの「目立たなくてもいい。いつもの四季のままでいい。そんな四季だからできるセンターがあるんだ。そんな四季じゃなきゃできないセンターだってあるんだよ」にも継承されている。




姉>妹の権力構造の解体
さて、ここまででLiella!側の権力構造を解体し、メンバーに失われていた主体性を、あらかた取り戻すことができた。
かのんが目指すのはLiella!とトマカノーテの対立を最終的にまとめあげることである。そこで次にかのんが行ったことは、マルガレーテまたは冬毬を支配する権力構造の解体である。
トマカノーテにも権力構造が存在しており、それによってマルガレーテ、冬毬両名の主体性を失わせている。しかし、Liella!を支配する権力構造とは性質が異なっている。
それは支配者が「姉」であるという点である。1年生組2人は「姉」の存在に支配されている、被支配者である。
たとえば、マルガレーテは当初から「Liella!に勝つ」ことを目的としている。ただ、それは「姉」に認めてもらうためである。
それは7話のマルガレーテ「わたしもLiella!を倒して、お姉様たちに認めてもらわなきゃいけないんだから」からもわかる通りである。マルガレーテのスクールアイドル活動はお姉様に認めてもらうことに従属しての消極的な意志決定であり、主体性を失っている。
冬毬も同様である。冬毬は2話において「スクールアイドル活動が根本的にどのようなものなのか、この目で確かめるため」「姉者がいないグループに在籍することで、いろいろ冷静に分析できる」といっている。冬毬がスクールアイドル活動を始めた動機は、夏美がスクールアイドルをやっていることに従属しての消極的な意志決定であり、主体性を失っている。
可可、マルガレーテ、冬毬を支配する規律権力
実は、マルガレーテや冬毬と同様な権力構造に組み込まれている人が、他のLiella!メンバーにいる。それが唐可可である。
イギリスの思想家ジェレミー・ベンサムが考案した円形の刑務所「パノプティコン」というものがある。フランスの哲学者ミシェル・フーコーは近代における管理システムの中にパノプティコンの構造を見出したという。

パノプティコンでは看守が中央にいて、円形状の構造の円周部に囚人の収容室がある。この構造のキモは、看守側からは囚人の様子を見ることができるが、囚人からは看守の存在が見えないことである。このことによって、囚人は常に「看守が見ているかもしれない」という意識を植え付けられ、次第に監視されているかもしれないので、規律を守らなければならないという監視意識を内面化させられることになるという。このような監視されていることを内面化されることで、自動的に規律に従わせてしまうような権力のことを規律権力という。
つまり何がいいたいかというと、実際は不在のはずの権力、規律権力に従属してしまっていたのが、可可やマルガレーテ、冬毬であった。
5話は可可の進路の話であった。可可の両親は可可に「家に戻って、父の母校である北京の大学に進んだらどうか、と」といっているらしい。
また、6話では可可「大学にいけばお母さんもお父さんも安心する。両親の恩返しにもなる。だから可可は進学しようと思っています」というのである。
このように可可は両親の意向に従って進路選択をするのだが、本編で見られる両親のシルエットは極めて希薄なのである。
下の画像に示すように、両親の顔が映るのは2つのカットのみである。


加えて、両親が大学進学を促すのは紙面上で、しかも「パンフレットを置いておくよ」という、大学進学を強制するものではなかった。

客観的に見れば、両親の行動はあくまで可可に選択肢を与える程度のものである。
それにも関わらず、可可は「両親は自分に大学進学をしてほしい」という思い込みから、大学進学を決めたのである。
これはまさに規律権力が働いた例である。両親>可可という権力構造が可可に内面化されることで、可可が自身を監視し、「大学に進学しなければならない」と考えてしまったのである。
これがマルガレーテと冬毬にもいえることなのである。
マルガレーテの姉はこれまでのスパスタでは全く登場していない。
可可の例も考えれば、恐らくマルガレーテは、Liella!に勝つこと、それが実現出来ないならウィーンに戻ってはいけないことをそれほど姉には強制されていない。
しかし、姉>マルガレーテという権力構造が内面化されているために、マルガレーテは「Liella!に勝たなければならない」と、自身に強制しているのである。
これは1話の「ラブライブで優勝したあなたたちとぶつかって乗り越えたい。じゃなきゃ自分が納得できないの」に色濃く出ている。
冬毬の場合も、姉>冬毬という権力構造が内面化されている。
数多の夢を追いかけては失敗した末の「大切なのは夢なんかより現実。マニーですの」という、今やスクールアイドルという夢を追いかけ始めた鬼塚夏美の、実体なき言葉が規律権力として冬毬に働き、「では私は全力で姉者に思い知ってもらいます。夢を追いかけることがいかにムダかということを」に繋がる。
姉>妹の規律権力の解体
この規律権力を解体するために、渋谷かのんは何をしたのか。
6話の上海11人ライブを経て、どうやら11人でステージに立つことは、冬毬にとってもマルガレーテにとってもまんざらではなくなったようである。





しかし、このまま11人になることはできない。
なぜなら、冬毬とマルガレーテを支配する権力構造があり、それによって彼女らは主体性を失ったままだからである。
このまま11人になろうとすると、主体性を失った彼女らは新たにつくられる権力構造によってまた支配され、主体性を獲得できない。すると、その先にあるのは形骸化したLiella!である。
かのんにはその権力構造を解体する必要があった。そこでかのんが行ったのは「お泊まり会」であった。
お泊まり会において、かのんは自分の部屋に2人を招き入れる。ここで、かのん=母親説を導入したい。
かのん=母親
ここまでで、澁谷かのんは神であるとして論を展開してきた。
実際、彼女は全ての人間に対して手を差し伸べて問題を解決してきたことからも分かるとおり、全能的なのである。そのことは母親的ともいえる。
地母神というものがある。日本の神話学者吉田 敦彦によれば、それは「大地の豊饒性,生命力の神格化されたもの。父神的性格をもつ上天神(天父)に対する。」であり、「〈地母〉の胎内に迎えられた死者が〈胎児〉に戻り,再生することができるという信仰」がしばしば見出されるようである(コトバンクより)。
つまり、神であり母親である地母神こと、澁谷かのんの部屋=胎内に入った2人は、胎児=姉の権力に抑圧されていない零度の状態へと再生されるのである。
すると、これまで「姉」に抑圧され、無意識に追いやられていた、冬毬とマルガレーテのパーソナルな姿が取り出されていく。


マルガレーテ
- 熱いものが好きだが、猫舌なのですぐには飲めない。
- クラゲは苦手。
冬毬
- シリーズものの1冊が欠けていると落ち着かない神経質さがある。
- 焼き芋が好き。
- 甘いものが大好き。
- クラゲが好き。
とこのようにかのんの部屋=母胎で零度の状態を芋づる式に取り出されていく。
その後の渋谷スクランブル交差点での、かのんの「今こそ、2人の気持ちを解放させるときが来たんだよ」はまさしくそのことを示しており、かのんの部屋でのコミュニケーションが冬毬とマルガレーテを抑圧する権力構造を取り除き、彼女らを主体化させるプロセスであった。
これに対して2人は零度の意志を吐露 する。

冬毬「私は姉者を敵だと思っていません。ただ夢を中途半端に追いかけて欲しくない。姉者の悲しむ顔はもう見たくないですから」
当初、2話で明らかになった冬毬の入部の動機は「スクールアイドル活動が根本的にどのようなものなのか、この目で確かめるため」「姉者がいないグループに在籍することで、いろいろ冷静に分析できる」というものであった。
つまり、トマカノーテ (便宜上トマカノーテと呼びます)に入部したのは、「姉者の在籍していないスクールアイドル部だから」という一点に集約される。これは、姉者に従属する選択であり、主体性に欠けていた。
ところが、上記のセリフでわかるように、冬毬のスクールアイドル活動の動機は「姉に笑顔になって欲しい」という、主体的なものになっていた。

また、
マルガレーテ「私はLiella!に勝ちたい。それだけよ」
このセリフからは、当初の「姉に認めてもらうために」という部分がそぎ落とされている。この時点で「姉に認めてもらい、ウィーンに戻るために仕方なくスクールアイドルとしてLiella!に勝利する」という当初掲げていた受動的な目的からは外れ、ただ純粋にLiella!に勝ちたいという主体的な目的を掲げるようになった。
その結果、かのんが当初掲げていた「みんなで1つに」という目的が冬毬、マルガレーテの両名から主体的に提案されるのであった。

この耳打ちの内容は、文脈とこの後の8話での結末から、おおかた理解できる。
冬毬「先輩は本当に私たちのことを考えていてくれたんですね。私たちの気持ちをちゃんと大事にしてくれました」
マルガレーテ「お人好しなだけかもよ?」
冬毬「でも、そのせいで、先輩はもうLiella!には......」
マルガレーテ「だから勝つの。私たち3人でLiella!に勝って、そして(耳打ち)」
冬毬「アグリーです」
8話ではLiella!とマルガレーテ、勝った方が相手の願いを1つ聞くという契約のもと、対決が行われるが、そこで明らかになったの願いは「勝ったら11人でラブライブに出たい」というものであった。
これらを総合すると、Liella!とトマカノーテが統合しようという趣旨だったことはわかる。
いずれにしても、かのんはお泊まり会によって冬毬とマルガレーテの、姉>妹の権力構造で抑圧されたパーソナルを取り出すことで、2人の主体性を取り戻したのである。
1つになる
さて、ここまで来ればかのんのLiella!統一という目的はほぼ達せられているようなものである。
8話では、トマカノーテ vs Liella!のラブライブ出場権をかけた対決が行われる。結論としては、トマカノーテとLiella!の11人でラブライブで出場することが決まるのであった。
ここで重要なことは2グループが「同じステージに立っていた」ということである。
1話からここまでの間で、それぞれのグループに存在していた権力構造が解体され、全員が同じ地平に立っていた。
それゆえに同じステージ上で1つの「円」を形成することができた。
権力構造が解体されていなければ、同じステージという地平に立つことができず(ex, 階段状の構造)、1つの円を形成することができない。

この「円」はラブライブスーパースターのシリーズを通して極めて重要な軸として存在しており、特に嵐千砂都から度々発せられる (ex, たこ焼き、上海の建造物)。

この場面で少し示唆的だったのは、可可が言った「新しいLiella!という意味でNew ella!(ニュエラ)」も、文脈的にはトマカノーテが結ヶ丘スクールアイドル部を乗っ取ってしまうのではないかという意味だったが、単なるおふざけネーミングではなく”New era”(=新時代)を意図しての発言なのではないかということにもなってくる。
6話で11人体制のLiella!でステージに立つことになったあと、メンバーたちは口々に11人体制のLiella!ならかつてのLiella!'(Liella!ダッシュと呼ぶことにする)を越えられるという。
千砂都は「私ね、ラブライブに優勝したあと、ふと不安に思ったんだ。これ以上幸せな瞬間ってあるのかな。スクールアイドルで頂点を目指して頑張って、最高の結果を出せて、この先もう目指す目標とかなくなっちゃうのかなって」という。
これを踏まえると、マルガレーテのLiella!に勝ちたいという思いも、Liella!'を越えるという形で実現されることになる。
こういった権力構造の解体と主体化のプロセスによって、Liella!とトマカノーテは1つの円として統合されたのであった。
避けられない、のしかかる課題
しかし、やはり権力構造に伴う脱主体化のプロセスは再生産されてしまうのである。
9話は権力構造の再生産をどう解決するかの話であった。<問題2
トマカノーテのうち、Liella!'に所属していたかのん、姉とのわだかまりを解消した冬毬と異なり、Liella!'と元々対立していたマルガレーテは再度被支配者側に回ることになる。
9話ではトマカノーテと統合したあと、Liella!メンバーであるきな子や可可、夏美がマルガレーテに歩み寄るも全て失敗に終わる。
ここには支配者側的な包摂の論理がある。Liella!にとって、マルガレーテは「かわいそうな人」なのである。
かのんの「みんながマルガレーテちゃんと早く仲良くなりたいと思ってるんだよ。こうやって気にかけて」というのは、マルガレーテにとっては余計な「配慮」であり、それは権力構造の上から来る行為である。

マルガレーテ自身「Liella!の一員になったことに後悔はない」がLiella!メンバーのこのような関わり方はむしろLiella!>マルガレーテの権力構造で抑圧する形になっており、結果、マルガレーテは被支配側となり、主体性を失ってしまっている。
そこでかのんはマルガレーテにフォーメーションの決定を任せる(=権力の分散)のだが、マルガレーテは客観的な指標に基づき、きな子、夏美が能力的に劣っていると評価する。

つまり、Liella!>マルガレーテという権力構造から新たにマルガレーテ>きな子・夏美という権力構造が再生産され、歪んだ権力構造が形成される。
このことを気にしてか、マルガレーテ自身「やっぱり、私が決めない方がいいと思う」という。自ら権力構造の被支配者側に回り、マルガレーテの主体性は再度失われてしまう。
そこで、きな子と夏美は自ら「きな子が年上とか、一切気にせず」「思い切り指導してほしいんですの」とマルガレーテに指導を請う。この行為は支配者側であったきな子と夏美が、被支配者側であるマルガレーテの支配下に、自ら主体的に進んでいく行為である。

これによって、権力構造が上下的なものではなく夏美・きな子(Liella!)>マルガレーテ>夏美・きな子>......というようなループ状の構造を取ることになる。これはまさしく「円」である。
マルガレーテの権力下にあったきな子・夏美は主体性を取り戻し、Liella!の権力下にあったマルガレーテは2人を指導することによって、主体性を取り戻す結果となった。
継承
ここでのやりとりでは、澁谷かのんが「敢えて」関与しないことを選択していた。
マルガレーテの「アンタも来なさいよ」に対してかのんは「私はいいや」「私はもう行かない」と答える。

それはきな子の「かのん先輩がLiella!にいられるのは今年で最後」でわかる通り、かのんは来年以降、1話から8話まで見られるような、積極的に手を差し伸べるように干渉する行為は叶わなくなる。
それを見据えて、現段階から手を差し伸べるのをやめたのである。来年生まれるはずの新生Liella!において、また直面するであろう権力構造の再生産にいかに対処するか、ということのいわば予行演習となっている。
そして実際、この場面では、夏美ときな子、来年2年生になる彼女らが自らをなんらかの手段によって主体化させたことで権力構造を解体しようとしたのである。
かのんにとってはこんなに安心できる・嬉しいことはないだろう。上の画像の通り、安らかな表情をしている。やはり母親なのか。
健全なシステムを維持するために
必要なのは、嵐千砂都的な「まん丸をつくること」である。
旧来のラブライブシリーズは3年生の卒業とともに活動がなされなくなるものであった。これはいわば「線」である。ある部分で切断すると、二分されてしまう。
つまり、なんらかの要因で一部が損傷した場合、システムが不可逆的に崩壊してしまうことを示している。

一方で、先ほども述べた通り、これはLiella!シリーズの当初から重要であった「丸」は、一部が損傷しても「線」になるだけなので、あとでそこを繋ぎ直せば戻る、つまり可逆的なのだ。
「丸」の概念が1期から続いていたということは、部をシステムのサステナビリティ的な観点がシリーズ作製当初から想定されていたのかもしれない。
まとめると、
権力構造が形成されると、被支配者は支配者によって主体性を抑圧されてしまう。それでは、支配者に従属したシステムになり、特に支配者が不在ともなれば、そのシステムは形式的なものになり、形骸化してしまう。それがかのん脱退後のLiella!であり、マルガレーテや鬼塚冬毬であった。
それを解消するためには、権力構造を解体し、主体性を取り戻す必要がある。解体のアプローチは様々だが、権威の相対化(かのんのトマカノーテ結成)、支配者>被支配者の順序の逆転(四季のセンター)、単に主体性を取り戻すアプローチとしては、無意識に抑圧された零度の意志を取り出す(可可、マルガレーテと冬毬)があった。
権力構造を解体し、主体性を取り戻したあとで、同じ地平に立ち、1つの円をつくる。
これによって、健全なシステムをつくるのだった。
しかし、この円も常に安定的ではない。先ほどもいったようになんらかの要因で一部が損傷することもあるだろう。権力構造の再生産や、脱主体化はいつでも起こりうる。
そしてそれは権力の分散(マルガレーテによるフォーメーション決定)といった応急処置的なアプローチでは根本的で長期的な解決策にはならないかもしれない。
そういったときには自らの持つ主体性によって、また権力構造の解体を試みなければならないかもしれない(夏美・きな子)。
おわりに
現在『ラブライブ!スーパースター!!』3期は9話まで放送されており、あと数時間もすれば10話が放送されるというところです。
この記事を書こうと思い立ち、構想を練ったのは8話終了段階だったのですが、それは8話を見たときに強烈な違和感を覚えたからです。
「かのん茨城まで来たのに外から鬼塚家眺めて帰ったのヤバい」
「対立したのに結局Liella!になっちゃうのか......」
「マルガレーテの思いが尊重されていないじゃないか」
といった思いがふつふつと出てきたのです。
どういう論理で理解すれば、これらのことを納得出来るだろうか。本記事はそういった趣旨の元で作製しました。
自分の中ではある程度まとまりましたが、皆さんはどうでしょうか。この記事を読んで、何かご意見などありましたら、ぜひともいただきたいところです。
そして10話のサブタイトルは「桜小路きな子」でしたね。途中で触れましたが、きな子は2年生で唯一センターを経験していなかったので、次回予告を見たときは「やはり来たか......」となりました。私の読みでは、結論的なものはもうある程度出ているので、これからは「実際に2年生がどうLiella!を導いていくのか」という部分にフォーカスが当たっていくのかなと考えております。
以上、筆者の自我パートでした。
大変な長文でしたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
なお、使用した画像は
2024 プロジェクトラブライブ!スーパースター!!『ラブライブ!スーパースター!!』3期
から引用しました。
ヒナと仁菜について-『ガールズバンドクライ』
今回は垂れ流し記事です。
『ガールズバンドクライ』、現在10話まで見ていて、ヒナと仁菜の関係性について予想したことを書いています。
仁菜の『空の箱』に対する思い
ヒナが空の箱を歌ってんのがマジで気に食わないンだろな。
仁菜にとって一番の問題なのは、自分の大好きな桃香が作った『空の箱』を、なんらかの理由で対立しているヒナが我が物顔して歌ってることなんだろう。そのなんらかの理由ってのは詳しくはのちほど述べるが、当初仁菜とヒナは同じ側にいたのだけど、ヒナは自分の正義を貫くことを諦めて大衆側に委ねた。そんなヒナが
「コタエはだいたい形ばかりの常識だろう」
「あたしは生涯あたしであってそれだけだろう」
と自分を貫くことを歌っていることが気に食わないんだろう。
仁菜とヒナの過去について
先ほど述べた理由についてだが、恐らく仁菜のイジメ関連であることは予想できる。
さらに踏み込むと、最初ヒナがイジメの対象だったんだと思う。それを仁菜が止めた。すると次第に対象は仁菜になった。それに対してヒナは何もしなかった。むしろ、「私は関係ない」とばかりに大衆側に溶け込んだ。
「仁菜が悪いんだからね。」
そのまま仁菜はいじめっ子集団の策略によって(仁菜に最初の原因がなかったにもかかわらず)両成敗という形になった。その後の放送室立てこもりである。
本題、ヒナ側の正義
ただ僕が言いたいのはここからの話で。
この先の話では、ヒナ側の”弁明“が始まるだろう。つまり過去回である。これからきっとヒナ側にも正義はあるのだということが明かされるはずだ。恐らく、彼女にとっても『空の箱』は救いの曲だったのだ。
具体的に何があったかはこれからの展開に任せるが、たとえばその事件では、本当は助けてあげたかった、でもどうしても勇気が出なかった。元々2人は多少衝突があれど仲が良かった。だからこその「仁菜が悪いんだからね」は「すぐに退いた方がいい」という彼女なりの助言であった。それでも自分を貫ける仁菜に憧れた。
空の箱は仁菜の自分を貫く姿を想起させた。その後、彼女は彼女なりのやり方で自分を貫いた。それが現ダイヤモンドダストとして表現されているのかもしれない。
「溢れ出しそうなほど詰め込んだ 他人の箱を横目に」
「下手な愛想笑いすらやっぱりできてない」
「こんな空欄さえなければあなたも思うでしょう」
「このままでいいなんて それだけは間違いだ」
ほら、そんなヒナの感情を歌っているようにも聞こえてくるでしょう?
まとめ
そう考えるとヒナに対して並々ならぬ感情が湧く。
我々視聴者はヒナに感情移入させるためにこれまでの展開があったのではないかとまで思わせるほどに。ヒナは弱くて、でも強くあろうとして、今の姿なんじゃないか。
仁菜のように自分を強く貫くことのできない僕らは、仁菜に憧れるヒナなのかもしれない。
全然違ったらそんときはそんときで。
順行と逆行の揺らぎ、そして再開-『響け!ユーフォニアム』1期1話/3期1話-
こんにちは、お久しぶりです。
アニメ記事はMyGO!!!!!以来ですね。
ようやく書けるようになったというか、ようやく「これは記事を書きたい!」と思える作品がやってきたという気持ちの変化です。
今回は2024春アニメから『響け!ユーフォニアム』です。
ついに、ついに、来てしまいましたね。久美子3年生編。
この作品は私の中でも特に思い入れの強い作品でして。というのも、私がアニメをガッツリ見るようになったきっかけの作品の1つだからです。今でも5本の指に入るほど好きな作品です。
だからこの作品の続編を見られるというのはとても嬉しい気持ちなのですが、同時に寂しくもある。これが終わってしまったらもう新しいユーフォは見られなくなってしまうんだと思うと、既にもう泣けてしまう。つらい。
というわけで3期1話を見るのもやや出遅れてしまったのですが、覚悟を決めてようやく見ました。
響け!ユーフォニアム、最高!
もうとにかく最高です。ファンサービスが特盛りで叫ばなかったシーンが1つもない。
3期1話の感想をそのまま書いてもよいのですが、せっかくなので私がいつか書こうと思っていた、ユーフォ1期1話のモチーフのお話と関連させてみようと思います。
順行と逆行について
お気づきの方も多いとは思いますが、3期1話のアバンで登場したモチーフの多くが1期1話から輸入されたものでした。
1期1話のアバンでは「始まり」を連想させるようなモチーフが多く出てきますが、それと同時に「戻る」ことを連想させるモチーフも出てきます。
本記事ではそれぞれ「順行」と「逆行」というように表現したいと思います。
具体的には、1期1話では「順行」は久美子が「吹部と近づく方向に進むこと」、「逆行」が久美子が「吹部から離れる方向に進むこと」ということになると思います。
物理的か、精神的かは、場合によりけりです。
1話なのに「逆行」というのは少し違和感があるかもしれませんが、それはちゃんと物語と対応していて、特に主人公である黄前久美子の心象を表しているといえます。
では、以降では具体的にどんなシーンなのかを挙げてみます。
まずは1期1話のお話です。
1期のモチーフ
1期1話のお話、覚えていますでしょうか。久美子は中学(大吉山中学校)で吹奏楽部に所属しており、府大会でダメ金を取った。その結果を見て泣いていた麗奈に「よかったね」というと「悔しくって死にそう」「私ら、全国目指してたんじゃないの?」と返される。それに対して「本気で全国行けると思ってたの?」とノンデリ発言をかます。
久美子は高校では同じ中学の子が少ないという理由で北宇治高校に入学した。北宇治高校の吹奏楽部は特に強くなくて、中学の子、すなわち吹部で同じだった子たちの多くは他の吹部が強い高校に行っているということである。
そこで久美子は、当然吹部の強い高校に行っていると思われた麗奈とまさかの再会を果たし、さらにそこで知り合った川島緑輝(以降、緑)や加藤葉月に誘われるがままに、悩んだ末に吹部に入部することになります。
前置きが長くなりましたが、重要なのは久美子が「悩んだ末に吹部に入部した」という点です。
「響け!ユーフォニアム」というくらいなので、ユーフォを吹いていた久美子が吹部に入るというのはメタ的に言えば当然なのですが、久美子には吹部入部に対して絶妙な葛藤があったことが読み取れます。その葛藤は「順行」と「逆行」のバランスで成り立っている。そしてそのバランスは、後述する『地獄のオルフェ』のシーンの前後で大きく変化することになる。
以降では、それらのシーンを具体的に示していきます。
信号
わかりやすいものだと、信号が「順行」のモチーフになっています。



久美子が吹部の見学に行き、麗奈と再会したあと、緑と葉月と一緒に帰る途中の場面です。
信号が赤から青になって、なんだか「始まり」だとか「スタート」を連想させるシーンになっていますね。順行のモチーフです。順行側にバランスが大きく傾きます。
少し話がズレますが、ここで信号を赤から青にしたのは、ボタンを押した「緑」であるということにも注目したいです。色の話ではなく。
このときの緑のセリフで「緑は(吹奏楽)やりますよ。音楽が好きですから」というのがあります。緑のこの精神は久美子に少なからず影響を与えていると思います。
というのも、1期12話で姉の麻美子と言い合いになるシーンがありました。
「音大行くつもりないのに吹部続けてなんか意味あるの?」と言われて、それに対して久美子は「あるよ!だってわたし、ユーフォ好きだもん!」というセリフを返しました。
ということもあって、「好き」という気持ちが吹奏楽への原動力になるマインドを伝えた緑が、久美子の吹奏楽の再開に寄与している部分は少なからずあると思います。
(色の話もありそうです。信号の青は実際、「緑」色ですし、緑輝という名前は何かを輝かせる、照らすようなイメージを連想させます。月永求がやたら懐いているのもそれと関係があるかもしれません。)
改札 (帰り)
続いて、改札のシーンです。先ほどの信号のシーンでは、赤信号から青信号になっていて、順行側のバランスが強くなっていましたが、ここで少し、逆行側に傾きます。
帰りの電車の改札を通るときに久美子は葉月に声をかけられる。


「久美子は?」「どうする?吹部」
と尋ねられると久美子はワンテンポ置いてから「ちょっと...考える?」と答える。
このとき、改札の途中で止まっていること。これが重要です。
先ほどまで、青信号の点灯によって順行側に傾いていた天秤が、逆行側に傾く。
3期になった今でこそ、そうは思えませんが、久美子が高校で吹部に入るまで道のりはとんとん拍子ではありません。
とにかく葛藤があります。順行と逆行を載せた天秤が揺れ動く。その葛藤がこのシーンに表れている。
絶妙な葛藤をこういった日常的なシーンで描いてしまうのがユーフォの凄いところだと思います。
電車 (帰り)
電車の進む向きは時間の向きや登場人物の心象を表すことがあります。
動画のシークバーなんかがわかりやすいと思いますが、右に行くほど時間が進む。
また、それは前向き後ろ向き、+と-、ポジティブとネガティブのイメージなんかとも対応して、おおざっぱに右がポジティブ、左がネガティブみたいなイメージがあります。
今回でいうと、右が「順行」で左が「逆行」ということになります。

その流れでいくとこのシーンは「順行」ということになります。
葉月や緑に説得されて気持ちは順行側に傾きつつある、つまり吹部入部の方へ向かいつつある。
しかし、この電車、下り方面電車なんですね。

京阪電車 駅・路線図(バスのりかえ)(https://www.keihan.co.jp/traffic/station/ )より
こちらは久美子たちが乗っている京阪宇治線の路線図です。
久美子と葉月の家の最寄り駅は宇治駅で、黄檗駅→宇治駅は下り方面の電車です。
上り方面と下り方面の電車が対応すると考えると、「上り方面」が「順行」で、「下り方面」が「逆行」だと思うんですね。
そう考えると、このシーンには「逆行」の重みも見えてくる。
つまり、久美子には「吹部には入らない」という気持ちがまだここにある。
実際、このあとの秀一との会話で「(吹部に)入ろうと思ってたけど、やめることにした。」と一度やめる決断に落ち着きます。
麦茶
続いて、麦茶のシーンです。
一見普通のシーンですが、ここにも久美子の葛藤が表れています。
このあとに出てくる牛乳のシーンと合わせて、ユーフォ作品全体の中でも私が特に好きなシーンの1つです。


飲み残された麦茶
この麦茶、最後まで飲みきっていないんですね。
飲まないでもなく、飲みきるでもない。吹部に入らないでも、入るでもない。この絶妙なバランスを見事に示しているシーンです。
「吹部に入ろうかな」という「順行」する気持ちと「吹部に入るのをやめる」という「逆行」する気持ちが入り混じっています。
また、このシーンで久美子が吹奏楽を始めるきっかけとなった久美子の姉、麻美子が帰ってきているという話をしているのも、この葛藤を表すシーンに「順行側の重み」として効いているような気もします。
ベッドと楽譜
ここは少し余談っぽくなります。3期でも似たようなシーンがある、ということで話を載せました。
ここで見事だと思うのは、久美子が読んでいる楽譜集(?)に「大吉山北中学校」とあるのですが、この学校名がこのあと滝昇の登場シーンにも出てきます。


「大吉山北中学校」の楽譜集を手にベッドに横たわる久美子

この場面、神社で滝昇が遭遇したカップルにオタク語りをしたあと、音楽プレーヤーに「大吉山北中学校 府大会」の文字が映し出されます。
このシーンだけで、
「滝昇が吹奏楽に精通していること」
「滝昇と麗奈(久美子)とはなんらかの関係があること」
がわかります。
この短時間にこれだけの情報量が詰まっていたんですね。
地獄のオルフェ
そして、先ほどのシーンですが、久美子が楽譜を読むとともに『地獄のオルフェ』が流れることによって久美子の吹部への熱の高まりを表しているようにも思えます。
ここからの一連のシーンはセリフがなく、一見そうでもないように見えるのですが、実は結構重要な気がしています。
というのも、このシーンが久美子にとっての順行と逆行のバランスの転換点でもあるからです。


実際、上に示した通り、このシーンの前後で久美子がベッドの上にうつ伏せだったのが仰向けになっています。
うつ伏せ=「逆行」
仰向け=「順行」
だとするならば、『地獄のオルフェ』は、
「逆行」側の重りを急激に取り外すことで、一気に「順行」側に傾かせている
ようにも見えます。
つまり、久美子はこのシーンを始点とした、吹部入部へのベクトルを伸ばし始めることになります。
牛乳
さて、地獄のオルフェのシーンを終えて、今度は久美子が牛乳を飲んでいる場面です。



先ほどの麦茶は途中で飲み残しており、それは久美子の吹部入部を決めかねた葛藤を表しているのでした。
対照的に、この場面では牛乳を飲み干しています。牛乳を飲み干したことは、順行側への傾き、つまり久美子の吹部入部への決意の表れが読み取れます。
麦茶ではなく牛乳なのは、単に朝だからなのではないかと思いますが、とても日常に溶け込んだモチーフの使い方だと思います。
この対比がとても綺麗で、大好きなシーンです。
吹部入部への決心を固めた久美子。「久美子~朝ご飯は~?」と聞かれるも「要らない」とバッサリ切り捨てる。
逆行の重みがなくなって、久美子の言動にも軽やかさ、ダイナミックさを感じます。
改札 (行き)
『地獄のオルフェ』が流れ、牛乳を飲み干すことでさらに順行側にバランスが傾きます。


帰りのときの改札では、葉月に声をかけられ、改札の途中で止まっていました。それが葛藤を表しているという話でした。まだそのときは、逆行の重みがそれなりにあったということです。
しかし、行きの改札ではどうでしょうか。上に載せた通り、止まることなく右方向へ進んでいきます。
電車 (行き)
帰りの電車では、右方向へ進むことで順行に傾きつつも、下り方面電車に乗るという逆行の重みがありました。
しかし、地獄のオルフェと牛乳、改札を止まることなく通ったことで、順行のバランスに強く傾き、その結果上り方面電車に乗って右方向に進みます。

この時点で、既に吹部入部が決まっていることが読み取れます。
まとめ
まとめます。さて、このあと実際に緑や葉月たちと会話をする中で、吹部への入学を決意したことが判明しますが、それはこれら描写の流れで手に取るように分かる。
それは久美子の心象(葛藤)が順行と逆行のバランスで構成されており、そのモチーフが反転され、繰り返される形で用いられることで、順行と逆行のバランスの時間変化が見て取れるからです。そしてそのモチーフは久美子の日常生活の中に溶け込んでいる。
ユーフォ1期1話はこの構成やモチーフのピックアップの仕方がとても美しく、『響け!ユーフォニアム』の顔といえるような話になっていると思います。
3期のモチーフ
さて、これまで1期1話の構成についてお話してきました。
私は以前から上記のようなモチーフの用いられ方に注目していたため、今回、3期1話を見て興奮が止まりませんでした。
3期の1話でもこれらのモチーフが繰り返し用いられていたのです。
ベッドと楽譜



うつ伏せ状態から起き上がる久美子。
手元には楽譜があって音楽を聴きながら起き上がります。
このシーンを見ると、1期の『地獄のオルフェ』のシーンが想起されます。
1期では帰ってきたあとにうつ伏せになっていたので、そこから起き上がるということはやはり「再開」の印象を与えますよね。
余談

牛乳


そしてこの牛乳です。
ちゃんと飲み干していて、感動しました。やはりこのモチーフは強力で、「順行」のイメージを強く印象づけるものになっています。
ところで、ここので父親のいうセリフで気づいたのですが、3年生ということで受験の話も入ってきそうですね。一生吹部の話だけしていて欲しいものです。

こちらは1期との対応はありませんが、「順行」の重みが乗っていて、「再開」の印象を与えます。やっぱり足。足は口ほどにものを言います。
信号


1期と違い、緑がボタンを押すこともなく、信号が青になり、そこを久美子が突っ走ります。やはり順行への傾きがあります。
ところでここのシーンの信号、赤が一瞬だけ映り込むのですが、そこで一時停止するのが困難なほど短いです。これも意図的なものなのかもしれません。
逆行?

ここのタイトルが出ているシーンですが、先ほどの「左=逆行」「右=順行」の話を汲むと、左に歩いているので、逆行しているように見えます。
さらにこのあとにも麗奈と再会したあとで左向きの上り方面電車に乗ります。


こう見ると、「再開」したはずなのに、逆行していて違和感があります。
一旦置いておいて先を見ましょう。
余談

ヤバいメタファーが盛り込まれていますね。ナニとはいいませんが。
北宇治カルテット=順行

葉月と合流しても左奥の方に逆行していきます。
しかし、左向き成分、すなわち逆行の重みが減ったとも考えられます。
ここから順行に傾いていくのでしょうか?
さらに先を見ます。


麗奈と久美子、そして葉月が改札を右に出る、つまり「順行」して緑と再会することになります。
ここでようやく順行し始めます。


すなわち、北宇治カルテットが揃うことで初めて「順行」するという仕掛けになっていました。
『響け!ユーフォニアム』を再開するのであれば、この4人からという思いがあったのかもしれません。
『響け!ユーフォニアム』、再開
そしてこのシーンはこれまでの話を汲んでいるようにも見えます。
ユーフォは最初、久美子が麗奈に余計なひとことを言ったところから始まっていて、それは久美子が吹奏楽から自身を遠ざける理由の1つでもありました。それは「逆行」です。
しかし、高校に入って葉月と緑と出会った。それが吹奏楽を再開する、つまり「順行」するきっかけになっていました。
この一連の流れが、上記の3期1話のアバンに組み込まれていたと考えることができると思います。
そして、話は変わりますが、

先ほどの4人が右へ歩くのシーンを普通に映すよりも、まず脚を映す。脚へのこだわりの強さたるや。
終わりに
今回の記事は以上になります。
「ユーフォは1期1話がすごいんだよ!」というのを各方面に言い続けてきましたが、それをようやく記事の形に出来たという意味でもとても満足感があります。
皆さんに読んで、理解していただけるかはわかりませんが、読んでいただいた方たちには、自分のこのエネルギーだけでも伝わればいいなと思います。
改めて、『響け!ユーフォニアム』3期1話、最高でした!
2話以降も楽しみにしております。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
なお、用いた画像は
『響け!ユーフォニアム』,©武田綾乃・宝島社/『響け!』製作委員会
『響け!ユーフォニアム』,©武田綾乃・宝島社/『響け!』製作委員会2024
より引用させていただきました。
生きているバンド、死んでいるバンド-『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』10話
MyGO!!!!!は"生きている"
MyGO!!!!!において特筆すべきは、その"生"のことである。
他のバンド、例えば「結束バンド」や「放課後ティータイム」と比較すると、MyGO!!!!!は生きているのである。生命力に溢れ、活力がある。元気をもらえる。
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7話を皮切りに崩壊していったMyGO!!!!!一行は10話で燈を核として、楽奈、立希、愛音を舞台に上げる。そして「壊してやる」とまで言った長崎そよをも舞台に引き上げ、MyGO!!!!!として演奏を行う。

多くの人はこのシーンを目の当たりにして、「ようやく報われた!」と救われた気持ちになるかもしれない。
しかし、このシーンの本質は演奏を行う前までのシークエンスである。このことについて、以下で補足していく。
ライブとはLiveであり、つまり生命である
そもそも、「ライブ」とはなんだろうか。
よく耳にするのはアーティストのライブである。アーティストはライブにおいて、観客の前で歌唱や演奏を披露する。
一方で、テレビを見ると画面端に「Live」という表記が見られることがある。これは「生放送」を表しており、映像を撮影すると同時にテレビで放映する。
しかし、原義に立ち返ればライブというのは「生、生命」である。
ロングマン英英辞典によれば、"Live"はいくつかの意味を持つが、そのうちの1つは"to be alive or be able to stay alive"である。つまり、「生きていること」。ライブというのは生そのものの具現化である。
迷子は出発点と到着点の間を駆け巡る
先ほど、MyGO!!!!!が生きている、という表現をした。それはどういうことなのか。
MyGO!!!!!というのはその名前の通り、「迷子」を意味する。これは燈や愛音が水族館のシーンを中心として、頻繁に繰り返すワードである。MyGO!!!!!というのは、要は「迷子」になっちゃったバンドである。では、「迷子」とはどういうことなのか。
これから述べることを想像してほしい。まず、地図上に1つの点がある。これを出発点とする。次に、地図上のその点とは異なる1つの点がある。これを到着点とする。
基本的には出発点を出発し、到着点に到達することになる。
ところが、MyGO!!!!!が出発点を出発したらどうなるだろうか?
MyGO!!!!!は「迷子」なのである。つまり、到着点にたどり着くことはできない。出発点にペン先をおいてそこからペンを走らせたあと、ぐちゃぐちゃと軌跡を描いて、到着点とは関係のない無秩序な運動の跡だけが残る。「迷子」とは恐らくそのような状態である。
到着点、すなわち死
先ほど説明した出発点と到達点の話を、生命とのアナロジーとして捉えてみる。
出発点というのは「誕生」である。一方で、到着点というのは「死」である。生命は誕生と同時に"生"の旅に出発し、"生"の旅を終えて到着点に到着することで死を迎える、ということになる。
これを考えると到着点に着いたバンドは、それは「バンドの死」として捉えることができる。
バンドも1つの生命である。バンドにも誕生と死がある。
最初は中核のメンバーが固まり始める。誕生である。徐々にメンバーを増やし、結束し、安定化する。これが到着、すなわち死である。
生きているバンド
これらを踏まえると、MyGO!!!!!は「生きているバンド」ということになる。
生命力に溢れ、活力があるバンド。
10話ではステージ上でバンドメンバーが召集されてゲリラ的にバンドを形作る。燈が立つと、楽奈が立ち、立希を呼び、愛音を呼び込む。そして長崎そよを引き上げる。
MyGO!!!!!でないバンドからMyGO!!!!!を観客の前で結成してしまうというのが新しさである。



このバンドの誕生、そして生の旅が行われる過程が、全てステージ上で行われたことが、まさにMyGO!!!!!のLive(生、生命)を映し出しており、観客からすればまさしく"ライブ"なのである。
その一方で、例えば結束バンドや放課後ティータイムは「死んでいるバンド」である。それらのアニメの基本的な構成は、アニメの前半でバンドメンバーが集まる。中盤から後半にかけて、メンバー間でのやりとりや、ライブが行われる。
これらのバンドはメンバーが集まった時点で既に、到着点に到達してしまっている。その後に行われるやりとりやライブは、もはや死後の永遠の世界で行われる娯楽の1つに過ぎない。
これまでの話から、MyGO!!!!!は旧来の王道的なバンドアニメ作品のカウンター的な立ち位置を占めることがわかるだろう。MyGO!!!!!はバンドアニメ界に革命をもたらしたといっても過言ではない。
これを読んだ人の中には言いたいことがある人ももちろんいるだろう。たとえば、MyGO!!!!!も10話で結成したのだから「死んでいる」だろうという人はいると思う。少なくともその点に関しては次の章に補足したい。
1つに見えて、バラバラ
その視線の先
MyGO!!!!!は10話を乗り越えて完全体、1つになったと解釈する人は多いだろう。実際、バンドとして演奏を行うためのハードルを1つ乗り越えた場面ではある。
しかし、なぜ1つになったと解釈できるのだろうか?
長崎そよがステージ上に上がったとき、メンバーの5人は円をつくり、みんなで中心を向いた。感動的なシーンに映るだろう。長崎そよは泣いている。ようやく1つにまとまった......。
本当にそうだろうか?
一般的なバンドがライブで演奏するシーンを思い出して欲しい。
基本的に、全員体の正面は観客の方向を向いている。つまり、みんなが1つの方向を向いている。これは、メンバーが1つにまとまっている状態と言えるだろう。メンバーはそれぞれ、観客によりよいパフォーマンスを見せようという考えで一致しているはずだ。
そう考えると、MyGO!!!!!はどうだろうか。実はこのシーンでは、誰も体を同じ方向に向けていないと解釈することも可能なのである。

このシーンは、一体感を演出しているように見えて、実は誰も同じ方向を向いていない、すなわちそれぞれが全く別の目的に向かっているのである。
例えば楽奈は1人、涙を流していない。楽奈視点の画角からは燈の方を向いているように見える。「やっぱりおもしれー女」とでも思っているのだろうか。


愛音は観客の方を一瞥しているシーンがある。「私のこと見てくれてるかなぁ」と考えているかもしれない。

長崎そよは立希と目を合わせたり、燈の方に目を向ける。CRYCHICである。


もちろん、互いにアイコンタクトを取っている場面もある。演奏をまとめるということ、まとめなければいけないということについては一致しているのだろう。一方でこれらのことは、MyGO!!!!!が決して1つにまとまってはいない、結束はしていないことを示している。つまり、まだ「迷子」なのだ。活性化エネルギーが高く、いつ分解してもおかしくない。メンバーがメンバーとしてロバストではなく、メンバーの間に揺らぎがある。
MyGO!!!!!が10話以降も「生きている」、すなわち「迷子」であり続けていること、あり続けるであろうこと。
このことについて、次の項でさらに補足していく。
祥子の存在
13話ではAve Mujicaという新たなバンドの存在が明らかになった。
「全てをむき出しにする」MyGO!!!!!とは対照的に、「全てを覆い隠す」バンドという立ち位置である。
祥子というのは、Ave Mujicaのメンバーの1人である。一方でかつて祥子はCRYCHICの中核を担ったメンバーである。
彼女がAve Mujicaとして活動することになれば、かつてのCRYCHICのメンバーは、祥子がAve Mujicaとしてバンドをしていることに気づくことは間違いない。特に「CRYCHICのことを一生忘れない」と言い放った長崎そよはもちろん、それに同意した高松燈は、そのことを知れば、MyGO!!!!!の中での言動に影響が出てくるだろう。
そうなれば、祥子の存在を巡り、またMyGO!!!!!のメンバーはバラバラの方向に進んでいく。すなわち「迷子」になっていくことが予想される。
Ave Mujicaは"死んでいる"
これまでMyGO!!!!!が「迷子」であり、「生きているバンド」であること、今後もそうあり続けるであろうことについて述べてきた。そして、それはこれまでの王道的なバンドアニメのテンプレート化された構成に対するカウンター的な立ち位置を占めることについても述べた。
すると、Ave Mujicaはどうだろうか。Ave Mujicaは先ほど述べた通り、「全てを覆い隠すバンド」である。これはMyGO!!!!!と対照的である。これまで述べてきたことに照らし合わせると、Ave Mujicaは「死んでいるバンド」ということになる。
実際、Ave Mujicaは祥子が自ら掛け合って集めたメンバーによって結成したバンドである。
Ave Mujicaは13話の時点で始めから、到達している。
つまり、「死んでいる」のである。
これは結局のところ、旧来的なアニメ内のテンプレートなバンドでしかない。そう考えると、Ave MujicaにはMyGO!!!!!に感じた新しさ、革命的な要素は恐らく存在しない。そういうわけで、Ave Mujicaという存在に私は不安を感じるところである。
彼女らがどのような姿を見せてくれるのか、不安な気持ちではあるが、(恐らく)祥子の救済という話が展開される上で、その過程で何か新しい展開があるのではないかという期待もある。
いずれにせよ、Ave Mujica編がアニメ化されるということで、楽しみなところではある。
以上の画像はバンドリちゃんねる☆『詩超絆(アニメ「BanG Dream! It's MyGO!!!!!」10話 挿入歌)』から引用しました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
にじさんじ甲子園-リアルタイム配信という1つの作品
こんにちは、かいんです。
にじさんじ甲子園というのを初めてリアルタイムで見ました。
本戦Aリーグ、白熱した試合でしたね。
自分はリゼ・ヘルエスタさんのファンなので王立ヘルエスタ高校の応援をしていました。
また、元々社築さんはトークがおもしろくて好きで、育成配信のときから追っていたので、横須賀流星高校の応援もしていました。
いやー、面白かったです。試合展開もそうなんですが、改めて「舞台的な面白さ」みたいなものを感じました。
今回はその「舞台的な面白さ」について、お話ししたい。
配信中の出来事は全て作品の一部である
ああいったリアルタイムの配信は、そこで行われたあらゆることを引っくるめて1つの"作品"になってしまう、というのが不思議で面白いですよね。
舞台というのは1つとして同じ舞台はなく、その場その場の失敗なんかも引っくるめて舞台です。
舞台は生き物なんていう表現がありますが、まさにリアルタイム配信は舞台に通ずる面白さがあると実感しました。
例えば、舞台では緊張のあまり声が出なくなってしまった演者を逆手にとって、演出によって「深い絶望に陥った人」というような見せ方にも出来るわけです。
にじさんじ甲子園2023で何が起きたのか
ヘルエスタ高校は今回、1勝2敗1分けでAリーグ4位という戦績で、優勝の権利を失ってしまいましたが、私としてはリゼ・ヘルエスタさんの試合の演出力みたいなものに感動しました。
というのも、引き分けも含め、大接戦のシーソーゲームを幾度とつくってくれました。
操作自体はコンピューターであるし、采配によって意図的に接戦を演じていたわけでもないので、彼女は直接的には無関係ですが、「試合の魅せ方」としては満点だったのではないかと思います。
本人としては接戦の状態は苦しいはずだし、負けてしまえば悔しいはずではあるのですが、リスナーの目には、それらを引っくるめて「面白い試合」として映るわけですから。
ゲームに本気になるのは楽しい。さらに勝てればより楽しい。それはここにいた配信者らに共通する気持ちであることは確かなのだろうと思います。
一方で、この試合の模様を配信してリスナーに見せている以上、1つの「配信」であるわけです。
つまり、敗北してしまってもそれは1つの「配信」としては成功している。配信が成功していれば、最終的には"勝利"になります。
言い方は悪いですが、試合に負けて勝負に勝つ、的なやつです。
ゲーム内で勝っても負けても、配信としては成功し得る、という不思議。これがリアルタイムの配信の面白さの1つといえるでしょう。
ただし、成功し"得る"というだけで、本当に成功するかどうかは、その結果に至る過程に依存するものではあります。
また、成否は個人の解釈に依りますし、どんな内容であろうと、結果は得られるわけですから、そういった意味では本質的な失敗というのは存在しないのかもしれません。




配信を「魅せ」続けた配信者
リアルタイムの配信を魅せるということ。
この点に注力していた配信者がいました。
黛灰さんです。
惜しくも引退されましたが、彼はあらゆる配信が「最終的にどういった配信になるのか」、「リスナーに自分のキャラクターはどう映っているのか」ということを考えていた人間でした。
もちろん、どんな配信者もそういったことを考えているとは思うのですが、彼はそういった姿勢を全面的に押し出していました。
この辺りが彼のそういった面がよくわかる配信だったと思います。
vtuberに関してはライトな人間なので、チョイスが浅いのは許して...。
特に桃鉄の配信は、リアルタイム配信的面白さという点において特出しています。
相羽ういは、緑仙、北小路ヒスイの3人と桃鉄をするか、森中花咲さんと桃鉄をするか。
その間をアドリブ的に揺れ動く黛灰。
「逆凸桃鉄」という企画を被らせること。そこまでは台本通りですが、それ以降のやりとりはアドリブです。
相羽ういはがメンバーを3人集める一方で、森中花咲は1人も集められず。彼はその時点で一旦森中花咲サイドに付くことを決めていたのと思います。
そうではなく、森中花咲が1人になったことを利用して、
2つの配信を横断した1つの物語
をつくりあげようとしていました。
今回の記事はこれで以上になります。
Vtuberに関しては自分はいわゆる"にわか"ですので、有識者の方々はいろいろ言いたい部分があったかと思いますが、その点ご了承いただけると幸いです。
にじさんじ甲子園2023は昨日で全行程が終了しました。
エキシビジョンもやるみたいですが。
3日目の試合についても以下で少しコメントします。
ネタバレ
結果はにじさんじ高校が優勝。
横須賀は決勝にて0-8で大敗を喫しました。
勝敗はいずれにせよ、もう少し競った試合展開であれば作品としては盛り上がったのでしょうが、それに関してはどうしようもありませんね。
そういった意味では3位決定戦の勇者育成 vs まめねこ は1番といってもよいくらいの面白い試合展開を見せてくれました。
ともかく、決勝に関しては椎名監督もプレッシャーの中戦い抜いたということで、全監督に拍手を送りたいところです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。