エパリダ以来の記事です。
今期2025春アニメは面白いアニメが多くて嬉しいです。
一方で現在、全体的に9話あたりまで来ており、今クールも終わりに差し掛かっており、寂しい気持ちもあります。
私のお気に入りは『宇宙人ムームー』『ボールパークでつかまえて!』『mono』です。
他にも好きな作品、面白い作品はありますが、この3つが特にいい感じです。
さて、今回は少し過激に、あまり関係のない今期の2作品を無理やり繋げていく試みをしてみようと思います。
面白半分で読んでいただけると幸いです。
今回取り上げるのはタイトルにもある通り、『日々は過ぎれど飯うまし』(以下、『ひびめし』)と『ボールパークでつかまえて!』(以下、『ボルパ』)です。
私の周囲にはこの2つを両方見ている方は少ないようでしたが、できるだけ内容を補填しながら書いている(つもり)なので、片方しか見ていないよという方もぜひ読んでいってください。
また、全体的にひびめし批判のような形になっています。ご了承ください。
『ボルパ』は『ひびめし』批判の物語!?
1人を「ハブ」る!?食文化研究部
『ひびめし』は、女子大生5人が食文化研究部という (ダミー)サークルをつくり、一緒に遊んだり出かけたり、ご飯を食べたり食べなかったりする日常を描くお話である。
主人公の河合まこは大学入学当初、1人で授業を受け、1人でごはんを食べる生活を送っていたが、そこで小学生時代の友人であった小川しのんとばったり出会う。小川しのんはいわゆるムードメーカーである。大学でも既に複数の友人関係をつくっており、比嘉つつじ、古舘くれあと共に食文化研究部をつくろうとしていた。
まこは彼女らと共に、その後人見知りでつつじの高校時代の友人である星ななも加わった、食文化研究部の一員として大学生活を送ることとなる。
食文化研究部は、ダミーサークルというだけあり、食文化を研究するわけではなく、登山に行ったり、ドライブに行ったり、合宿に行ったりと、基本的には女の子たちが仲良く和気藹々とする物語なのだが、実は食文化研究部はかなり厳しい場所でもあるのだ。
というのも、『ひびめし』には、1人を「ハブ」る場面が散見される。
最も印象的なのは、7話だ。
タイムラインで見ている限り、この回は大盛り上がりであり、「神回」とも言われていた。
食文化研究部の1人である古舘くれあは、他の部員とは大学時代からの付き合いである。
その一方、まことしのんは小学校時代、つつじとななは高校時代からの付き合いである。
つまり、くれあだけ昔の思い出を他の部員と共有していないのだ。
まさにそのお話が中心になっていたのが7話である。
部室で合宿の話をしている最中に、まこが見た夢の話になり、彼女らの間で昔話に花が咲く。
それを聞くくれあは、1人疎外感を覚えていた。

合宿の寝る前のピロートークでもその話が続く。
そんな様子を気にしていたまこは、みんなでご飯を食べたあと、満点の星空の下、周囲の夜景を一望しながら、「今がいつか思い出になるから気にしなくていい」と慰めたのである。
そんな会話を経て、2人の間の距離が縮まった結果、くれあがまこを名前呼びするようになった。
タイムラインでは特に、このシーンを挙げて「神回」だとするような投稿が多数見られた。


確かにこの2人の距離が一気に近づくイベントで、感動的なシーンではある。
しかし一方で、7話についてくれあが「ハブ」にされていたと解釈することはできないだろうか。まことしのんは小学生時代の思い出を、つつじとななは高校の頃の思い出を共有している。過去の思い出を共有しないくれあはその話には加われない。
つまり、くれあだけが関与できない思い出話をすることで、「ハブ」っているのである。
そして、このようにくれあを「ハブ」ることによって、これから今という新たな思い出を共有していなければならない、という強制力を働かせている。
上に示した一連の話は、食文化研究部の全員が思い出を共有していなければならないという強制力を働かせることで、食文化研究部に対するコミットメントを過剰にさせている。
これに似た展開が、実は5話のドライブシーンにもあるのだ。
つつじとしのんが、なながまだ入部していないときの食文化研究部で、高尾山の登山にいったときの話を、車内でするのである。
それを聞いたななはいう。

一瞬空気が凍る。
一般的にはクスッとなってしまうシーンではあるのだが、ここに強制力みたいなものが感じ取れるのだ。
つまり、なな、特に極度の人見知りである彼女にとっては、食文化研究部というコミュニティが大学における居場所であって、そこにフルコミットしなければならない。
そこでみんなと思い出が共有されていないと、この居場所に残り続けることはできない、という強制力が働くわけである。
ななのこのセリフはそういった強制力を感じてしまったがゆえの産物と考えられる。
これに対して、しのんは「これからこの5人で、たっくさん楽しい思い出つくっていけばいいんだよ」という。
これは新しく思い出をつくって、その思い出によって食文化研究部の部員を結びつける行為である。
7話のくれあのお話も、要はそういうことで、「思い出を共有していない人を『ハブ』にして、新たな思い出によって結びつける」という、いわばマッチポンプ的な話の展開がなされおり、食文化研究部というコミュニティに過剰に束縛させていくのである。
大学で1人だけど飯はうまい、でもいいはずだ
ひびめしの話は思い出を共有しない個人を一度「ハブ」にして、そのあとで集団に包摂していくみたいな展開のされ方をしている。
確かに5人みんなでの思い出はかけがえのないものだが、それはそれとして、当初大学生活を1人で送っていたまこっちが、モコ太郎の動画を見て、それを参考にして1人でご飯をつくり、それを美味しく食べる話もいいじゃないかと思う。

(というか、当初『日々は過ぎれど飯うまし』というタイトルから想像される話はどちらかというとこっちの方向性だった。)
5人みんなで思い出をつくる、という展開によって、こういった1人での経験みたいなのが失われてしまうのは好ましくないように思われる。
余談
7話の話をちょっとだけ振り返ると、みんなでレトロ電車に乗るシーンがある。
5人で乗るにも関わらず、4人のボックス席に座ることになる。つまり、1人余る。
これも1つの「ハブ」である。

『ボルパ』は突き放す
さて、ここまで『ひびめし』の「ハブ」について論じてきた。
これほど意識的・露悪的ではないにせよ、1人を「ハブ」にするということは事実ベースで理解していただけたと思う。
ここからは『ボルパ』の内容に触れ、その問題を引き受けたい。
『ボルパ』は球場のビールの売り子に視点を置き、場内外の様々な客と交流するお話である。
メインとなるのはまだ経験の浅い、金髪ギャルの売り子・ルリ子である。
(おそらくビールの売り子、略してルリ子だ。安易だがわかりやすい)
ルリ子がどのような接客をするのかは、一般的な金髪ギャルを想像していただければ、それほど外れないだろう (私の金髪ギャル像がズレまくっている可能性はあるが)。
ルリ子はたまにドジを踏むが、とにかくノリがよく、人懐っこさがあり、老若男女から好かれるような、そんなキャラクターである。
そしてそんな彼女のキャラクターが、本作品が醸し出す温かさの源泉となっている。
注目したいのは、そんなルリ子がメニューにない酒を注文しまくる酔っ払い迷惑おっさんの接客をするシーンのある7話である。
この話では、ルリ子が働く球場をホームとする、千葉モーターサンズの監督の「99回のムダを頑張れるやつが好き」という言葉に感銘を受けたルリ子が、毎度行われる売り子たちの「ムダな」声出し練習の意義を次々と見いだしていく。

「大変申し訳ございません」「Have a nice day!」
その日の接客では、次々と練習したセリフを使うことになり、「声出し意味あるじゃん!」と練習の意義を見いだしていくが、唯一「have a nice day!」という掛け声だけは使えずにいた。
流石に「have a nice day!」を使う場面は限られるから、これは無理かと思っていたところ。
そんなときに出会う1組の客が、ビール以外の酒を注文しまくる迷惑酔っ払いおっさんである。
そのときの会話で、おっさんに「ハブ酒ないの?」と言われるシーンがある。

ルリ子はそのおっさんの対応に困りながらも、最後に「ハブはないっすね〜 (=have a nice day)」という。
その直後、自分の発言にハッとして気づき、「『have a nice day!』使う場面あった!やっぱ声出し練習意味あるじゃん!」と気づく話だ。
これはこれで面白い話なのだが、それはそれとしておわかりいただけただろうか。
ここで先程までの『ひびめし』の話を思い出してもらいたい。
『ひびめし』は1人を「ハブ」にすることで話を展開していたのだった。
奇しくも『ひびめし』と同じ7話において、『ボルパ』は「『ハブ』(るの) は (よく) ないっすね〜」と言い放つのだ。
これはもはや、『ひびめし』批判と言っても過言ではない (過言)。

というのはちょっとした冗談として。
しかしこの無理やりな話の繋げ方によって、『ボルパ』は『ひびめし』のカウンター的な話を展開していることに気づく。
ルリ子のこのセリフは「Have a nice day~!」と迷惑なおっさんでさえも球場から「ハブ」ることなく、それでいて「ハブ (酒)はないっすね~」と軽くおっさんを突き放す両面性を帯びている。
この球場内にいるチームのファンはみんな味方である、という強制力の中で、その束縛から解放する逆方向への突き放しをするのが、ルリ子のこのセリフである。
別に売り子だからといって、ハブ酒まで用意してやる義理はないが、まぁビールは売れるから売るけどさ、という感じだ。

迷惑おっさんにも満面の笑みで「あざっした~」と言って元気に去るルリ子

つまり、「ハブ」にして「全員が思い出を共有しなければならない」ような強制力を働かせることで、コミュニティへの束縛を強化していく『ひびめし』に対して、
『ボルパ』は球場内の客を仲間として同調させていくのではなく、同じチームを応援する味方という最低限の繋がりだけを保ち、どんな客でも受け入れつつも突き放していく、というつかず離れずの緩いコミュニティをつくりあげているのだ。
同じ釜の飯を食わなくてもいい
さて、ここまでだと「ハブ」とかいううっすいラインでこの2作品を繋げたのか?となってしまうので、もう少し話を繋げたい。
同じ釜の飯を食う『ひびめし』
ひびめしの話は「同じ釜の飯を食う」を地で行く物語、と言っても文句はないだろう。
実際、部室の前や旅先で思い出を1つ1つ形成するが、それにはいつも、みんなで同じ食事をする行為が伴っており、互いの距離を縮めることでより強固なコミュニティになっていく。

多くの『ひびめしファン』は、やはりこの一連のシーンを魅力的に感じているのだろうと思う。
先ほど、まこっちが1人で食事をするシーンを挙げ、充実した1人飯生活を送っていることを述べた。
しかし、1話以降の食事するシーンは基本的に部員が全員集まって行うものとなり、まさに「同じ釜の飯を食う」アニメといっていいだろう。



余談
飯に対するこだわりがすごい。トマトを包丁で切った切り口を見て、「変態だ」と思った。

同じ釜の飯を食わなくてもいい『ボルパ』
一方で、ボルパでも「同じ釜の飯を食う」に関連した話がある。
そして奇しくも、また同じく7話である。
ドラフトで同じ年に入団した2人の選手のお話だ。方やドラフト1位でフィジカルエリートで入団早々にスター選手、方やドラフト6位で身長も小さく、ケガで出場できない選手の代わりでやっと一軍出場できた選手だ。
6位の一宮は、1位の獅子尾に対して劣等感や嫉妬心を抱いており、あまり日常的な場面で出くわしたくはないと思っている節がある。

練習前のあるとき、食堂に向かう一宮が、食堂から帰る獅子尾とすれ違いざまに獅子尾に言われる。
「あんかけ唐揚げ美味かったから食ってみ。あれ、航絶対好きだぞ」。

獅子尾はこういうちょっとした声かけみたいなことを素でやってしまうイケてるやつである(関係ないかも知れないが、女性ファンも多い)。
一宮としてはいろんな悪感情が湧いてきてしまうために、獅子尾との接触はできるだけ避けているのだが、そんなやつにあれ絶対好きだから食ってみろよ、などと言われて「調子が狂う」わけである。
一宮はその後、獅子尾を巡る悶々とした思考の中、食堂に行くのだが、食堂のおばちゃんにそんな気持ちを察されてか、
「関係者用の食堂のお米と選手食堂のお米はどちらも同じセントラルキッチンで炊いている」
「球場で働くみんなが、あなたと同じ釜の飯を食べてる。だからみんな、あなたの味方、みんなね」
と言われるのだ。
そして、あんかけ唐揚げを食い、「美味い」と涙をこぼす。




「美味い...です...」
一宮はこの出来事を機に、獅子尾への向き合い方を変えようと試みる。
(獅子尾を敵視していた一宮だが、獅子尾としては、自分のことを仲間だと思っていて、その純粋な気持ちであんかけ唐揚げが好きそうだと言ってくれた。一方的に嫌悪していた獅子尾だが、彼も「同じ釜の飯を食う」味方であるのだから、正面から向き合う必要がある、という気持ちの変化だろう。)
ここまでを見ると、『ひびめし』同様、「同じ釜の飯を食う」物語のように見えるのだが、重要なのはこのあとの展開である。
そして、当初獅子尾と接触することをなるべく避けていた一宮は、食堂での話を獅子尾に話題に振る。
「なぁ知ってるか?獅子尾。俺たちが食ってる食堂の米ってさ、実は....」
さぞかし感動的なシーンになるのだろうと思いきや、
獅子尾は
「俺パン派だから食堂の米食べたことないんだよな~」
と突き放してしまうのだ!
それを聞いた一宮はズッコケ。やはりこいつ嫌いだ、となってしまうっていうオチだ。

いや~なんて清々しいんだ。
みんなが「同じ釜の飯を食」ってるんだから、みんな味方でみんな仲良く、なんて言われても、実際のところ「とはいってもやっぱ嫌いなやつは嫌いだし」となるわけである。無理なものは無理なのだ。
この話はとにかくそこのバランスが絶妙である。
ここでの嫌いだ、は「憎めないやつだ」みたいな意味合いなわけで、今すぐにチームから追い出したい、出ていきたいというわけではないだろう。
この絶妙なつかず離れずみたいな距離感が良い。
「同じ釜の飯を食う」ことによって、結束を強めていくというのは、かけがえのない仲間をつくる上ではとても重要なことではあるのだが、反面それはメンバーを束縛してしまうものにもなる。
『ひびめし』のいいところはそのかけがえのない一瞬のキラキラした青春の思い出をつくるところではあるのだが、みんなで思い出を共有していく方向性というのはときに脅迫的である (5話の星ななのセリフを聞けばわかるだろう)。
思い出を共有していなければ「ハブ」になるので、そこに身を投じる必要が生まれ、コミュニティ外での活動を制限されかねない。
『ボルパ』はそこのところを上手いこと突き放している。
球場にいる同じチームを応援する人たちは確かにみんな味方ではあるのだが、ハブ酒まで用意してやる義理はないし、別に同じ釜の飯を食う必要も無い。
球場は日々の生活では全く交わらない、思い出を共有しない人たちが集まる。
それでも選手が活躍し、チームが試合に勝てば、ビールを片手にみんなで盛り上がれる。
そんなつかず離れずなコミュニティが、球場ひいてはサードプレイスとしてのあり方なのではないだろうか。
終わりに、および自我パート
「ハブ」ると「ハブ」酒という冗談みたいな話から無理やり話を進めてきました。
『ひびめし』に至っては「ハブ」という単語はアニメの中で (おそらく)使われてもいないので、全くひどい話です。
ただ、そこから『ひびめし』と『ボルパ』を比較してみると、前者はどんどんコミュニティに束縛されていくような強制力を持っている一方、後者はその束縛は最低限で、むしろ突き放す方向の力を持っている、とわかる。
こういう緩いサードプレイス的なのがあってほしいな~というのもあり、私は『ボルパ』の方が好きです。
『ひびめし』もいいんですけど、こういうことを考えていたがために、7話でくれあが「まこ」呼びしているシーンを挙げて「神回」「神回」と言われるのに対してちょっとつっかえていたんですね。
私がむしろ『ひびめし』7話で好きなのは、しのんが「つつじさん、あなたの意気込みを聞きたいですわ!」と合宿に対する意気込みを聞いた際に、「意気込み~」と答えるところです。
その後しのんが「それでは点呼取ります! イ~チ!」と言ったのに対して、くれあが「あ、みんないま~す」と答えるところもめちゃくちゃ好きです。


意気込みを聞くとか、点呼とか、そういった堅苦しい儀式を軽々しくはねのけていく爽快感があって好きです。
今回はこんなところです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
なお、画像は
『日々は過ぎれど飯うまし』ひびめし製作委員会
『ボールパークでつかまえて!』須賀達郎・講談社/「ボールパークでつかまえて!」製作委員会
より引用しました。














































































































